ドアをノックするのは誰だ?

雑報 星の航海術

小沢健二のコンサートに行ってきた。
ライブとコンサートの違いって厳密にはないんだろうけれど、バックにヴィオラやバイオリン、チェロを控えた演奏とあいまに朗読を挟んだきっちりとした構成は、なんだかコンサートというほうがしっくりくる。

フリッパーズギターの時代の音は、オサレ感は満載だなと思ったけれど、あまりピンとこなかった。
でも、解散後に出した「犬は吠えるがキャラバンは進む」にやられた。

逆の感じ方をした人はコーネリアスのほうを好むのかもしれない。
そんなこんなで小沢健二を聴き始めてかれこれ20年になる。これほど長く聴いているのは、あとは岡村靖幸くらいだ。

オペラシティの舞台に立った小沢健二は、遠目にもさらさらの髪と細い四肢と薄い胸板という相変わらずの佇まいで、なんだか現れただけで歓声あげたくなる気分になる。

というかキャーって言っちゃったし。

僕はアルバム「LIFE」の中の「ドアをノックするのは誰だ?」が大好きなのだ。アレンジをかえた曲がかかって、またキャーってなってしまった。

“誰かにとって特別だった君をマーク外す飛び込みで僕はさっと奪い去る”
“寒い冬にダッフルコート着た君と原宿あたり風を切って歩いてく”
“スケートリンク君と僕と笑う”

のくだりを聴くと、なぜかボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』を思い出す。

きっとこれを念頭に置いて詩を綴ったんじゃないかと妄想していて、もし本人に会う機会があったらぜひ確かめたいと思っている。

『うたかたの日々』をもう何度読み返しただろう。本当に好きな小説だ。(新潮社版の『日々の泡』より、訳は古めかしいけれど、ハヤカワのほうが断然よい)。

それこそ20年前の話だ。
大学を出て数年、旅に出る友人が「何かお勧めの本はないか」というので、僕は読んだばかりの『うたかたの日々』を差し出した。

後日、彼女と本の返却ついでに会った際に「どうだった?」と感想を尋ねたら、「なんだかポロポロ泣いちゃったよ」と言ったので、思わず僕はギュッてしたくなった。わかるよ、その感じと言葉で伝えるのだけでは足りない、遅い気がしたから。

胸に睡蓮が咲くという難病を抱えたクロエとまったく労働に向かず、遺産を食いつぶし、暮らしの実相に触れた途端、現実にひしがれるしかないというコラン。ふたりの悲痛な恋の物語。

『うたかたの日々』を読んだのは、「LIFE」が発売されたとき、つまり僕が働き始めた時期に近く、“たぶんこのまま素敵な日々がずっと続くんだよ”と小沢健二が歌う中、僕はこの小説に小さな宝石みたいなきらめきを覚えてはいたけれど、同時に小説の世界が迎える破局に感じいればいるほど、社会で生きることが怖くて仕方なかった。

僕の現実には、もちろんクロエとの恋のような、それこそダッフルコート着て歩くような楽しい日々はなく、ただ無味乾燥な労働に次第にやられていくコランのような日常しかなかった。それがこの先に起きることのようで恐ろしかった。

まだロスジェネという自分の陥っている状況を一括変換できる言葉もなく、なぜ働くことがこれほど苦しいのだろうと思っていた。

あれから20年経った。
コンサートで僕は“たぶんこのまま素敵な日々がずっと続くんだよ”と大声で歌うことを躊躇わなくなっている。

暮らし向きがよくなったわけじゃない。そう、続く限り生は続くさ。そんなふうに思っている。

悲惨なことは多いよ。
だけど悲痛さに感じ入ることはあっても意味を付け足さないし、もう必要以上にそこに意味を見出さないのだ。

この世に起きる悲しみに身を開き続けて、感じる。そして通過させる。悲しみは風邪みたいに経過させればいい。
決して振り返ってこじらせたりしない。そんなふうに思うようになっている。