話すこと、身を捧げること

雑報 星の航海術

先日「生きるための文=体」の1クール目を終えた。

言いたいことはあるが、話し出すまでそれが何かわからない。だから話し始める。多くの人にとって当たり前のことを生まれて初めて行ったんじゃないか。

考えるまでもなく、人と話をする際に用意された原稿を読み上げるようなことは誰も行なっていないのは、確かに言えることが何かわからないけれど、話していく中でしかわからないこと、話さないとわからないことがあるからだ。

考えるまでもないのに考えるから訳のわからないことになるのだろう。

(考えてみれば)どれほど抜かりなく準備され、すばらしい内容の話であっても、それを思い返しつつ話そうとした途端、隙や弛緩が生じる。
当たり前だが、この場にいながら、ここにない話をすると、自分の中に空虚さが生まれるし、自分自身の心持ちと関係なく、また相手と自分とのあいだのつながりを感じることなく、再生スィッチを押すのと変わらない要領で話し始めたとき、そこで現れる言葉はどれほど綺羅を飾った言葉であろうと、限りなく本物に近い贋物でしかない。

こんな話は多くの人にとってわざわざ言い立てるほどでもないことなのだろうが、僕はずっとわからずにいて、いつもその場で起きていないことしか話していなかった。

改めて思うのは、初めから言う内容が本人にとってわかっている話ほど空疎なものもない。
もしも、それが「話す」ことなら、そもそも話すという行為は必要ないのかもしれない。文字を書いて渡せばいい。

なぜなら伝える内容が圧縮されて、それを解凍するように話すのならば、話すという行為全体の時間をかけて紡がれる、目前の人との関係を必要としないのだから。そう、他人を必要としないのだ。

話すことは歩くことに似ている。
歩くには、倒れつつ倒れないように進まなくてはいけない。足元を磐石にしていたら歩けない。

たとえそれが通い慣れた道であっても、この瞬間に踏み出される一歩は、いまだかつて経験したことのない空間に身を乗り出す。本当はいつだって自分の全存在がこの一歩にかけられている。

心と身とをその場にすっかり捧げることが話すということなんじゃないか。