経済活動について

雑報 星の航海術

取材で熊本へ行った。
訪れたゼロセンターでちょうどズベさんこと、アサヒ鉄工の藤本高廣さんの展覧会が行われていた。

鉄くずからつくられたランプの数々にとにかく圧倒された。しばらく“ヤバい”という言葉しか出てこない。

生き物みたいなランプ。

オープニングパーティではバーベキューが行われていたが、懇意の工務店の社長が差し入れたオードブルの数々を焼肉のタレをつけて食べつつ、ズベさんは「うまかね」という。
野趣あふれるズベさんはウソか本当かわからないけれど、「ガスも電気も止められた女房子供には愛想を尽かされ」と話していた。彼の振る舞いや言動を見聞きするにつけ、日本の現代アート市場では評価されないだろうけれど、海外ならもっと注目を集めるんじゃないかと思って仕方なかった。

翌日、ゼロセンター近くにある古着をリメイクした服を売るlittle vintageに足を運んだ。そこで目が釘付けになったのが右は明治、左は江戸時代の生地を使ってつくられたシャツだった。

江戸と明治のコラボレーション。

オーナーの原田真助さんは、「既にあり余るほど服はあるのだから、新しく作る必要はない」という考えをもっている。ファストファッションの反対を行っているわけだけど、業界を回すための流行や制作、販売ではなく、彼の考えに共鳴した人が対価を払い、それを纏う。

市場というやたらデカいものを想定しなくても、死なないで生きていけるやり取りこそが経済というものじゃないかと思ったとき、僕は江戸と明治の混在したシャツとズベさんの作成した机を買うことにした。

それらの品々を纏う、持つことによって自分を誇示したいのではなく、「こんなヤバいものをつくる人に対して、他の評価のしようがないので、とりあえずお金というものと交換する」という感じだった。

なんというか彼らの作品を見たとき、「ああ、あなたもそうだったんですね」という感覚に襲われた。
誰かから何かを買う。単線的で、それ以上の膨らみのないやり取りを僕らは経済活動と迂闊にも呼んだりしちゃっている。

どこかに所属して、そこで獲得したお金で何かを得ることが当たり前になっている。
自分の営みと誰かの生業とが交差することがない。誰かの生業にはほんとうは日々の営みが織り込まれているのに、そういうものがないものとして、僕らは労働と消費の「とりこじかけの明け暮れ」じみた往還を人生だと思い過ぎている。

僕は彼らのきらめきに触れた気がする。それは見かけは作品や商品と呼ばれるけれど、生業と営みとそれらを生み出す、その人の身振り、振る舞いとが分けられないもので、形だけでは見えない形と決して嗅ぐことのできないパフュームのような。そんなものに触れてしまったら身銭を切るしかないでしょう。

これからは「いま必要だから」と思い込んで買うようなムダなお金の使い方はよそう。当面、お金を通じて交換するほかないものへの敬意として使おう。
投資という未来をつくる行為は、そういうことなのかもしれない。