モバイルハウスを見に行った

雑報 星の航海術

俳優の渡辺篤史が長らく続けている「建もの探訪」というテレビ番組がある。

渡辺篤史がレポーターとして、オーナー自慢の物件を訪ねては、「ハハァ、なるほど」と感慨を述べる内容なのだが、ときおり家主のこだわりが、渡辺篤史にしてみれば、「何の変哲もない」か「突拍子がない」に感じられてしまうようで、そんなときは家人の飼っている犬やカメといったペットを「かわいいですね」と誉めた上で「わかりました」と話題を転換、番組をずんずん進めて行く。
そんなふうに問題物件をやり過ごす渡辺篤史だが、彼がモバイルハウスを見たらなんというだろうか。ふと、そう思った。

 モバイルハウスとは、建築家の坂口恭平さんがホームレスの家を参照してつくった移動式の家屋だ。
奥行き3メートル弱、高さ2メートル、幅1.5メートルほどの大きさの構造物が震災の翌々日から吉祥寺の住宅街にある駐車場に据え付けられている。
近くには公園があり、道を行き交う子供らが車輪付きの白いモバイルハウスを覗き込む。

初めてモバイルハウスを訪ねたのは3月15日。福島の原発がメルトダウンするのではないかと言われていた頃だ。(実際はとっくにメルトダウンしていたのだが)。
電車のダイヤが乱れていたことに加え、放射性物質の飛来を恐れ、誰もが外出を控えていた日だった。

坂口さんはさすがに賢明でさっさと東京から離脱していたが、電話をしてモバイルハウスの見学をお願いしたら、「どうせなら昼寝でもしていってくださいよ」とふたつ返事で許可をもらった。

友人も誘ってみたが、「それどころではない」という返事。うん、確かに時局を鑑みないバカだと我ながら思った。
でも、動かないではいられない気分だった。不穏な空気の蔓延する中でも「冷静さを失わない」と海外メディアに賞賛された住民たちの沈着な態度は、僕にすれば、身に付いてしまった慣習の強迫的な繰り返し、習い性になった日常の反復に思えて仕方なかったのだ。

 表からは冷静に見える構えは、裏を返すと取り乱すこともできないくらい足が竦んでいる証ではないかと思えて仕方なかった。
浮き足立つことなく、変化に対応するには、眼前のことに慌てふためくのでも鈍感になるのでもなく、この先に起きるであろう事態を認識した上で行動する必要があると思った。

そこでモバイルハウスのような発想がこれからはきっと重要になるんだろうと思い、百聞は一見に如かずと吉祥寺を訪れたわけだ。とりあえず鍵を開け、中に入り、ベッドを引き出して横になった。

 天井はアクリル板が敷かれており陽光が直に入る。ソーラパネルもとりつけられており、これを車のエンジンに積まれているバッテリーにつなげ、12Vの電源として利用している。
さっそく借用してiPhoneの充電を試みる。家庭用の電源は200Vだ、ぜんぜん問題ない。機嫌よく充電してくれる。ちゃんと室内灯だってつく。

ベニヤでつくられたこの家はオール電化の上、すべてホームセンターでそろえる部材でできており、制作費は2万6000円也。駐車場に置けるのは、法律では、車輪がついていると家屋ではなく、構造物として見なされるからだ。
水道やトイレ、風呂はどうするかといえば、公園やコンビニ、銭湯で済ます。都市にあらかじめ埋め込まれたインフラを利用するというわけだ。それを坂口さんは「都市の幸」と呼んでいる。

 ちょうど森になっている実を採集して生きるようなもので、森の幸が無料であるように、都市においてもさまざまな実りをタダで利用できる。こういう発想はベーシックインカムを提唱している小飼弾さんとも共通しているように思う。

坂口さんも小飼さんも社会的資源を豊かにして、それに個人が自由にアクセスできる環境を整えさえすれば、誰も飢えて死なないというシンプルな考えをもっている。
だから直観的に社会的資源に厚みをもたらす利他こそが、人が生存する上で重要な行為になると理解しているんだと思う。

奪うこと所有することにかまけるのではなく、資源を豊かにし、それを自由に利用できる社会をデザインするという発想は、今後重要になるはずだと、僕は放射性物質が飛来しているであろう空を見上げながら思った。

それから3週間ほど経って、熊本に移住した坂口さんの上京に合わせ、4月5日にモバイルハウスを再訪した。編集者やミュージャンの七尾旅人さんも来訪し、4人が2畳間の茶室のような家で膝付き合わせた。

不思議に狭く感じないのは、モバイルハウスが衣服に近いような、身体との密接感をもっているせいかと思う。
人間の生存に必要とする最小単位のこの空間は、地震の影響もほとんど受けない。車輪が揺れに合わせて動く上に軽過ぎて壊れようがないからだ。

都市のインフラを前提としているモバイルハウスは、被災地にもっていったからといってただちに機能することはないだろう。
けれども住宅ローンや家賃を払うといった、不動産に釘付けになって働くことが是とされている時世にあって、安価に住処を獲得できてしまえる行為は、当然とされている現状の生の様式に根源的な問いを投げかけるのは確かだ。

現代アートであれば問いを突きつけるだけでいいだろうが、モバイルハウスはその次元に留まらないポテンシャルをもっている。この建築物の重要性は、既製品を利用し、DIYでつくれることであるが、設計図通りにつくり、簡易な家を手にすることがゴールではない。

生活費を稼ぐために生活をする。生きるために生きることはあっても、ただ生きることからは遠ざかった生活のあり様をゼロベースから捉え直し、再構築する。その発想と観点を自ら培うことを要請する力がモバイルハウスに内包されている。それをこそライフデザインと呼ぶのだろう。