僕の家の近くに美味しいマフィン屋さんがあって、内装もしゃれた店を切り盛りしているのは、いつも黒かグレーのカットソーに結い上げた髪、きりりと結んだ口が特徴の女性で、お客さんが来れば「いらっしゃいませ」というけれど、基本、マフィンをつくる手を止めないというか、別にぞんざいな応対じゃないけれど、anybodyというよりnobodyに向けてという感じで、つまりは、自身のミッションに忠実な感じがする人なのだ。
西荻窪に越してから週に一度は買いに行くので、ここ最近は「こんにちは」と声をかけてみるのだけれど、ワンクッションあってから応答がある感じで、ある種のぎこちなさに僕は好感を覚えている。
昨日、お気に入りのレモン&カスタードのマフィンを求め、勘定を済まそうとしたら、「この辺りにお勤めなんですか?」と話しかけてきた。割りと繁く買いに来るから疑問に思ったんだろう。
「近くに住んでいるんですよ」「そうなんですね」。
一往復で終わる会話をして店を出たのだけれど、直後からすごく不思議な気持ちになってしまった。いま僕が交わした会話は、文字としてみれば「この辺りに勤めているのか否か」の確認の内容だけれど、なんかそれに還元できない何かに触れた気がした。
以下は完璧に僕の妄想です。
僕がマフィン屋さんに通うのはマフィンが好きなこともあるけれど、別に週に一度必ず食べなけきゃならいわけではなく、なかったらそれはそれで平気で、でも店の前を通るとつい入ってしまう。
マフィンが好きだからマフィンを買うというのは、あくまで表向きの理由で、僕は実はその店の何かに参加したいがために通っている気がする。
店の醸し出す香りに触れたいから訪れるだけで、なんかよくわからない雰囲気に感電したいから通っているのであって、マフィンはその象徴で、よくわからない何かに対価を払っている気がする。その感じが彼女にも伝わった気がしたから、珍しく話しかけてきたんじゃないかと妄想してみた。
なんでそんな妄想たくましくしたかというと、彼女のミッションに突き動かされている感じがすごく刺さるからで、そういう人のつくりだすのは、もうモノじゃなくてコトで、ようはatmosphereですよね。
そんな豊かさを提供されたとき、こちらとしては何か別のコトを繰り出したいけれど、ダンスでも音楽でも詩でもいいのだろうけれど、そんな芸が僕にはない。
だから「とりあえずあなたがこのマフィンに380円というタグをつけているので、この社会における交換の際にお約束として使われている貨幣を出してみました。が、本当は別のかたちもありえるんですけどね」と言いたい。
でも、こんなくだくだしいことを口にしたら、たんなる頭のおかしい奴だと思われるので、とりあえずおとなしく380円を出すけれど、本当はちょっともどかしい。
やっぱり貨幣は貨幣として最初にあったのではなく、貨幣は人の振る舞いの射影としてつくられたんじゃないか。コミュニケーションの交換(交歓あるいは交感)の射影として貨幣は生まれたんじゃないか。
最初に人の振る舞いがあった。つまり、私の振る舞いと誰かの振る舞いが交換、交歓、交感された。
「あの人のつくるマフィン、ヤバいよ」と言葉が伝わっていく。人が動く、訪れる。これは貨幣の運動と同じで、交感交歓されるとき、私の振る舞いは死蔵されることがなく伝播していく。私はatmosphereのある振る舞いを続ける限り、死ぬ(死蔵される)ことがない。
世の中で経済活動と呼ばれるのは、貨幣の所有を求めるもので、これは私の振る舞いの射影である意味を取り損ねているんじゃないかと思えてならない。死蔵することに意味を見出すのは、運動の否定。交歓と交感の否定に他ならないから。
この世の何と交換し続けるか。それが暮らし、生きるということなんじゃないか。
自分のミッションを知り、遂行するとは、nobodyに向けた身の捧げ方とも言えて、だからそれに触れてしまった人間は、その価値を伝えたくなってしまうんじゃないか。
Amy’s Bakeshopのマフィンはそんなことを感じさせてくれる。