意識的に生きるということ

雑報 星の航海術

写真家の石川直樹さんが子供たちに向けた本をつくろうとしていて、そのお手伝いをしている。

テーマは冒険前夜で、たんなる成功物語ではなく、たとえばエベレストに向けて歩みはじめた、その一歩の感覚だとかプロセスについて描き出そうという内容になる、はず。

先日、石川さんはローツェ登頂を悪天候から断念し、日本に帰国した。
ローツェは8000m級ではあるけれど世界に4番目に高い山で、エベレストに登ってきた石川さんがなぜローツェにと思ったのだけど、ローツェからはエベレストがくっきりと見え、そこから撮られた写真がないそうなので、そのために計画したのだという。

ところが今年は史上最悪の天候で雪が積もっておらず、そのため落石がひどく、とうとう登頂を諦めざるをえなくなった。その判断についてはパーティで議論はあったそうだが、決まったとみるや翌々日に石川さんは東京に戻り、仕事をはじめていた。

高地では体の痛みや変調、不調が如実で、いわば体のあちこちに凸凹ができる。
その凸凹は体だけのものではなく、そこを覆う、というかそこと一体の意識の歪みでもあり、その凸凹のへこみやでっぱりを無理に均すでもなく、うまく“当てて”いくことで、痛みや不調を溶かしこんでいく。とくに6300mを越えた途端、食欲、睡眠欲、性欲がなくなり、いちいち体に尋ね対話してかないと、何事も始まらないのだそうだ。

しかも8000m級になると人間が棲息できる限界を越えた環境のため、文字とおり一歩を運ぶことに意を注いでおかないと、生きることに総身でかからないと意識がもたないという。

そのかわり、そこで出会うのは、一瞬一瞬の現れが過ぎていくことと同じような、その束の間にしか存在しない風景を見ていると言うよりは、自分そのものでもあるような壮絶な世界の流れ。(こんな表現は石川さんはしていないので、僕の妄想だけど)

意識的でいないことには、体の変化の示す乱調のほうに引っ張られ、それが自分自身となってしまうらしい。そんな経験がないので、感覚的にしか把握できないけれど。心に映った風景なのではなく、風景が自分そのものになるんだろうなという感じがする。

そんな感覚は平場の街ではまったく感じられないし、それどころか、ここでは必要以上の重力が生じている。
というのも街に住む人たちの「たぶんこんなもんだ、暮らしというのは」を共有した無意識によってつくられているからで、8000m級に比べて生きやすい環境のはずなのに軽やかに生きることが異様に困難になっている。(関係ないが最近、たとえば「困難になっている」に“気がする”という言い訳じみた文末をつけることがどうもできなくなっている)

都市で意識的に生きるというと、意識で外部を注意深く見ることと誤った理解をされがちだけど、そうじゃない。
自分のやっていることを見張り塔から見るみたいに見ることだとか、半返し縫いのように行動に意識をいちいち絡ませることではなく、意識と行為がまったく離れない、警戒に満ちた状態だということだろう。

意識と行為とのあいだにある感覚が私たちの存在そのものであり、その感覚が感じた外部を私たちは見ている。だから本当は私たちは、私と外という対立を生きているのではなく、常に「そのもの」として生きている。

それを意識的に生きるのだとしたら、僕はエベレストには登れないけれど、その境地から見える光景を見てみたいなと思うし、思うで終わらせない計画をきちんと練らないといけない。そんなふうに思うのだ。