兄に関する風聞

自叙帖 100%コークス

風の便りに兄がたいそう太ったと聞いた。
4歳違いの兄の近況を風聞で知るとはどういうことだ?と思うかもしれないが、兄とはもう15年近く会っていない。

「あんなに細かったのに顎が二重になってて驚いたわ。」
「お腹が出ててびっくりしたわ。体重も100キロ近いんちゃうか」
「一瞬誰かわからへんかったわ。めっちゃおっさんになっていたで」

こうした親戚の目撃談を聞くと、なんだか狐につままれたような心持ちになる。太っただけではない。この15年のうちに子どもが3人もできたそうだ。

僕の記憶の中では、兄は贅肉がまったくなく、しかも丹古母鬼馬二みたいな顔をした父の血をひくとも思えない、ちょっと豊川悦司にも似たイケメンという風貌として定着している。とにかく異性にもてた。

バレンタインともなれば、兄は大量のチョコレートを腕に抱えて帰って来るのだが、毎年恒例のように「おまえみたいなブサイクは一生女の子と付き合えんやろな」と言い、哀れに思ってか母は毎度チョコレートを用意してくれるのだ。
だが、オカンの義理チョコは、兄の「ひょっとしたら一生恋愛とは無縁かもしれない説」を補強しているように思えて仕方なかった。

そういう話を含みおけば、兄の様子を風評で知るとは、さても僕が容姿にコンプレックスを抱き、ひがみから「仲が悪くなったのだな」と思うかもしれないが、そうではない。

むしろ僕は友人たちが「うちは兄弟姉妹の仲が悪い」と言うのを少し羨ましく感じてしまう。なぜならそういう自覚を得るには、「相性が悪い」と判じられるまでの積み重ねなり関係性がなくてはならないからだ。
また、「男兄弟なんてそんなものよ」との声もよく聞くが、「そんなものよ」の言うところが何なのか僕にはわからない。

僕らには関係性がなかった。まるで一人っ子がふたりいるような環境の中で育って来た。
兄と交わした会話の総計は1時間もあるだろうか。それも「醤油取って」とかのレベルを入れてのことなのだが。

幼い頃から僕は兄に「いったいこの人は何なんだろう?」と異文化の人間を見るような目を向けていた。
異文化という生硬な言い方をしてしまうのは、同じ言葉をしゃべっているとも思えない話の通じなさがあったからだが、兄の心情をはかる物差しをついぞ持つことができなかったことがいちばんの理由だろう。

僕ら兄弟は仲が悪いのではなく、誤解すらしようのない捻れの位置にいたというのが妥当かもしれない

前にも書いたように、チック症だった僕は寝る前に用を足したものの、ベッドに入った途端、「おねしょをするのではないか?」と疑心暗鬼になり、何度もトイレに行き、「これでは眠れないではないか!」とベッドに突っ伏して泣き、泣き疲れて寝るというたいへん面倒なことをしていた。

一方の兄は豪快に寝小便をするか。尿意を感じて目覚めると、トイレに行くのが面倒なのでベランダに植えている木々に放尿し、草花をすべて枯らしてしまうという始末であり、幼少時に2段ベッドで過ごしたふたりであったが、ベッドの上と下とでは、棲息の仕方がまるで異なっていた。

テリトリーを共有する同族であれば、かりに口を開けば擦過傷をつくるような間柄であったとしても、良し悪しはあろうけれど、常に触れ合うくらいの距離があってこそ生じるものだ。

喧嘩というのは、両者の手が届く親密な距離で行われる。喧嘩は痛みの分かち合いというコミュニケーションでもあり、家族の成員であれば予め和解を想定した闘争だという側面もあるだろう。

そういう意味でいえば、僕ら兄弟は喧嘩をしたことがないかもしれない。ふざけ合いからの発展が喧嘩になった場合でも、じゃれあいがムキになるまでの進行はコミュニケーションを含むため、なだらかな曲線を描く。

だが僕らには暴力を躊躇う遅延がなかった。生態が異なり、ニッチを澄み分けている以上、本来ならば関係ないはずの生き物なのに家族という関係をもたされてしまった。それゆえに両者間に言葉がない。関係の仕方が暴力的になってしまう。

日頃から身体接触のないふたりには珍しくふざけてじゃれあっていたことがある。経緯は忘れたが、普段にない接触に上気したのか、互いにヒートアップした。

そしてどうなったかというと、僕は肩の関節を外された。

あまりの痛みに泣いた。身体が目に見えて変形するという異常さに、兄は弟を表面的であれ心配する様子も、かといってバツの悪い表情を浮かべるでもなく、「外されるほうが悪いんじゃ!」という言葉をその場に捨て置いた。

その半年後だ。ささいな口論をきっかけに僕はテーブルにあった鍋の蓋を兄に放った。肩を外しておきながら、一言の謝罪もなかったことへの遺恨もあったろう。
鍋蓋はミュロンの「円盤を投げる人」が投擲すればかくやという放物線を描き、兄のこめかみをシュパっと割いた。溢れ出る血と救急車のサイレン。

長じてから「そんな時代もあったね」と理解しあうどころか、ますます互いが互いにとってわからない存在になっていった。

僕が20歳の頃だ。深夜にテレビを見ていたら兄が帰宅した。左手で右の拳を包むような格好をしていた。訝しく思い、よく見てみると右手の人差し指の付け根から甲にかけて裂けていた。ピンク色した肉が見えていた。

驚く僕を尻目に兄は冷静に言うのだ。「針と糸を持って来い」と。
街中の喧嘩にしても、いったいそこまでの怪我を負うものか。

ともかく目の前でチクチクとまつり縫いとか本返し縫いをする様子を見るのはたまったものではない。病院へ行ってくれと頼み込んだ。

その頃の兄は放埒とも無軌道という言い方でも追い付かない、どこか捨て鉢な、自分自身を打棄るような傾きがあり、めちゃくちゃチューンナップしたBMWで夜な夜な出かけては、朝に帰るか。自分の部屋に籠って出て来ないかという暮らしぶりだった。

あるときなど僕の書棚にあったドストエフスキーをまるごと持ち去っていた。足の踏み場もない乱雑な部屋の食べかけのパンや饐えた匂いを放つ弁当ガラのあいだに本をまき散らしてあった。読んだ形跡はない。

「ドストエフスキーに何を求めているのだろう」と思いつつ、ふと机の上を見れば、フランス傭兵部隊への入隊希望者に向けた資料が置いてあった。

「え? フランス語できひんやん。っていうか仏教大学で仏教学んでいるのに何で殺生の方向で将来を考えてんの?」

ドストエフスキーと傭兵部隊の取り合わせに、僕は身体ごとはてなマークになりそうになった。