自分に関するマニュアルの欠如

自叙帖 100%コークス

清々しい思いで寮としてあてがわれていたマンションを退出した朝、空は夏の盛りを迎えようとする蒸れた青で染め抜かれ、人生そのものは先行きは荒天模様であっても、心中は極めて晴れやかだった。

それにしても僕のダメなところは、生理に忠実に行動する・用意周到に抜かりなく行動する・一瞬の熟考をもって行動する。この三位を一体とする、行動を統合するためのマニュアルをもっていないところで、つまりは社会に出るまでの教育期間中に、自立と自律に向けた身体をまるで整えていなかった。

どうしてここで身体と書いたかというと、行動は概念によって導き出されないからだ。何かの考えを覚えることで自分の行動が万全となるべく統合されるわけではない。
今日日、概念を実行することが人生だとか生活だとキャリアプランだとか思われているけれど、そんな倒錯した考えを信じているとすれば、たんなる変態でしかないだろう。当たり前だが、現実の進行は概念以前だ。

言葉によって考えられることは、突き詰めると「あれかこれか」しかない。ようは善悪・是非・正誤といった分類しかできない。
でも物事はそんなふうに割り切れない。だから何かの判断をくだすときに胸のあたりにわさわさする思いがしたり、しっくりしない感じがしたりするのは、体感つまり身体による計測が自分の分類の粗雑さをどこかで知っているからで、詰めの甘さが身体に残るからこそ感じる胸のつかえや腑に落ちなさというものがある。

総身を使って物事を捉える。これを本来は思考というはずだが、脳や感覚だけについ引きずられてうっかり行動に出てしまう。それが自分に対するマニュアルのなさ、教育の欠如につながっていることなんだと思う。自分の穴を知っておかないと埋めることもできない。

僕の面倒臭いところは、だからといって、ただ闇雲に突貫すればいいとも思っていないことで、にもかかわらずサバイブするための周到さを欠いたまま行動しておきながら、「なんとかなる」と根拠のない自信を不安と釣り合いがとれるくらいはもっているところだ。
自分と自分をめぐる状況に関するそれなりの見通しをもっていれば、そんなアクセルとブレーキを同時に踏むような手間のかかることはしなくていいはずなのだが、生理的にがまんならないことへの堪え性の無さが周到さと熟考を顧みなくさせてしまう。
そこが坊ちゃん育ちの甘さに由来するところだと思う。

甘さが放置されて来たのは、そうであっても他人の好意によって生きてこれたからだが、それがありがたいことでありかつ問題でもあったと後年感じたのは、ピンチを迎えたときに手を差し伸べてくれる人が必ず現れることによって、自分を教育することを怠けていても生きてこれてしまったからだ。

本当に損なわれてしまう前に他力によって救われたことが僕は本当にたくさんあって、いまみたいな、「不況だから余裕がないのだ」という一点の原因だけで解説できないような、個人が見向きもされずに放置されることをもって自立と言われる異様な時代にあって、それはとても幸いなことなんだと思う。

1990年代末期から2000年初頭にかけて無差別殺傷事件が陸続として起きたが、時代の流れからすれば、世の中から見放されたと感じ、自暴自棄になって自分も他人も損なってしまうべく行動に出ることはとても容易で、僕はその動きに見事にのってもおかしくなかったロストジェネレーションの先駆けだった。

社会に出てからこっち、ずっと貧乏ではあるけれど、貧苦が心に抱く思いの鬱屈を増し、それが血膨れし始める前に必ず手を差し伸べてくれる人が現れた。なぜなのかはわからない。
僕はその恩恵に見合うだけの何かを提供したとも思えない。僕はたんなるデクノボウだったから。だから完全な贈与によって僕はこれまで息を継いでこれた。

何の目算もなく会社を辞めた途端、あまり話したことのない大学時代の先輩から電話がかかってきて、僕は報道ステーションの前身のニュースステーションやNHKの番組をつくっているテレビの制作会社でADとして働くことになった。これも贈与だった。

サーブを拾いまくるところから東洋の魔女と呼ばれた。

ADというのは気を使うことが仕事みたいなもので、たとえていえば大松博文監督の指導のもと「東洋の魔女」と言われ、東京五輪女子バレーで金メダルを獲得した選手らの身につけた「回転レシーブ」に匹敵するような、とにかく機先を制し、言われていないことも行う。気配を拾いまくることが大事なのだが、僕はデクノボウなのでまったく気が使えない。

というか、FAXの使い方も電話の掛け方もわかっておらず、本来すべき雑務を上司が行うというような始末だった。たぶん周囲は、予想以上の使えなさに僕を持て余していたのだろう。が、なぜか社長には気に入られた。

初出勤前の社長との面談で盛り上がったのは、仕事の話ではなく、石原莞爾や大日本武徳会に関することで面接は短時で終わるだろうと思っていたら、その日は家に帰宅できず、朝までお酒を飲みながら会社で話すことになってしまった。

社長は彦吉常宏さんといい、早稲田の全共闘副議長だった人で、剣道と中西派一刀流を学び、世が世ならば剣で立身を試みた人だった。つまり今の若い人が思い浮かべるような左翼人士ではない。

麿赤児とも馴染みの中で、彼が芝居をする金に困っていたところ「じゃあ一緒に行きましょう」と訪れた先が、5.15事件を起こした元海軍中尉の三上卓で、特に面識があったわけでもなかったという。
お金の算段をつけてもらったのかどうかまで知らないが、とにかく初見でいたく三上卓に気に入られたそうで、そのエピソードからわかるようにようは浪漫派なわけだ。

会社は赤坂にあって、ときおり近くで接待の宴席が設けられた日などは、電話がかかってきて、僕は店に呼び出された。客人の姿はすでになく、テーブルの上にはまだ温かく手のつけられていない食事が残っていて、彦吉さんは「お腹が空いているだろう。食べなさい」と言う。
そんなときは、たとえ既にご飯を食べていて満腹でも、テーブルの上の食事を全部平らげた。それくらいしか自分にできることはないと思っていたからだ。

何かを察したのかもしれないが、あるとき彦吉さんはこう言った。「別にいまは何かできなくたっていい。おまえはいりゃいいんだよ」。

振り返れば、いつも何かできるようになることを促されていた。そんなふうに全肯定されたことがないので、僕は不覚にも泣きそうになってしまった。
でもなんだかここで涙を流したりしたらとてもチンケな感傷をまとわりつかせた野暮なオチがついてしまいそうだから、気配を悟られぬようパスタを口いっぱいに頬張ったのだった。