東武東上線の下北沢

自叙帖 100%コークス

前回書くのを忘れていたことがあって、それは会社の寮のあった分倍河原から退出して、新しい部屋に住むまでの経緯で、24歳にして僕は生まれて初めて自力で不動産屋で部屋を借りる経験をしたのです。

いままで情報としては、部屋を借りるだとか就職、結婚、融資だとかの局面で、在日コリアンは難儀すると親や先輩から聞いていた。
たぶんそうなんだろうけれど、自分が実際に経験するまでは本当かどうかはわからない。

就職にしても本名ではなく日本名を使えば採用されることもあって、プライドの問題はともかく、当面の暮らしを第一に考えたとき、日本社会に参与しづらいハードルはあっても、「それはそれとして」という方便を用いれば抜け道はありえる。

「それはそれとして」という片付け方に膝を屈するように感じる人もいる。なぜわざわざ抑圧するシステムに合わせて生きなくてはならないんだと。

僕だって自分が自分らしくあることを誰からも否定されるいわれなんてないはずだと思うし、それは何も権利という少しばかり生硬な言葉を持ちださなくても、茶飲み話のひとつでもしながら「そうだよね」と頷きあえるような、すごく簡単なことなんだろうとは思う。

けれども素直な気持ちで「そうだよね」といえることって、人間の欲望や暗さや後ろめたさがつくりあげた社会システムの中では、あんがい「甘い」とか「理想」だとか言われてしまうもので、そうやって言われているうちに、「そうだよね」という自分が思ったことすら疑うようになって、かつて頷いて自分を否定したり、他人を罰するような言動を積極的にし始めたりする。そういうのを「大人になる」とか言うのホントに止めて欲しい。

僕の場合、とりあえず日本名ではなく本名で就職活動したのは、社会という二文字でさらりと語られてしまうものの姿形が実際のところどういうもので、そこに働きかけたときどんなリアクションがあるのか知りたくて試してみただけのことで、主義主張やイデオロギーがあったわけじゃない。
ただ知識や情報だけで世の中を語るなんてみっともないことをしたくなかったし、やっぱり身体かけて計測しないとわからないじゃないですか?

で、不動産についてもとりあえず正面からノックしてみようと思って本名で申請したんだけど、まあことごとく入居拒否にあいました。問題にされたのは職業でも収入でもなく国籍で、驚いたのは94年当時、バブルの余韻がまだあって、それで世界に冠たる国際都市を任じている東京の不動産がめちゃくちゃローカルなルールで動いているということだった。
ちなみに90年代後半からこっち、不動産屋の窓口ではOKという返事がもらえる機会は増えている。でも話を詰めていくと、「大家さんがね…」と言われて断わられるケースもまだまだ多くて、だけど不動産業としては国籍は大して問題ではなくなってきつつあることを感じる。時代は変わったなと思いますね。

ところで東京に出たての僕は、まだよく地理がわかっておらず、自分のテリトリーをどう描けばいいかもわかっていなかった。ただ、休日は決まって都心の書店に足を運んでいて、なぜか池袋のリブロに足を運ぶことが多かったので、そこで引越し先も自然と池袋を基点に考えるようになった。

いろんな不動産屋に断られた挙句、たまたま入った不動産ではわりとスムーズに話が進んだ。そこで勧められたのが東武東上線の大山駅近辺の物件だった。
6畳一間のアパートで家賃は5万5000円。風呂はないがシャワーがついている。東京の不動産事情に疎い僕は、その価格が適切なのかもわからない。東武東上線という路線がどういう色合いをもっているのかも、したがって大山がどういう土地なのかもわからない。

不動産屋の社員はたしかにこう言った。「お客さん、大山はねぇ、東武東上線の下北沢って言われているんですよ」と。

上京して数ヶ月、まだ下北沢に行ったことはないのだけれど、若者の集う、サブカルの匂いのするオシャレな街という印象はもっていたものだから、「悪くないじゃない?」とその物件に決めることにした。内見もせずに。

これまで仕事の合間を縫って不動産屋に通っていたのに何度も断られ、ちょっと投げやりになっていたため、さっさと決めたい心もちになっていたせいで、しかも世間に疎い僕は内見をした上で借りることも、その街に実際に足を運んでみることもせず、ただ写真だけで決めてしまったのだった。

全長600mに及ぶハッピーロード。

そして、いざ引越しの日、ハッピーロード大山というやたら長いわりには焼き鳥屋とドラッグストア、パチンコ、赤提灯が目立つという、どうもバラエティのない感じの商店街を歩きながら、なんか嫌な予感。

だから「あれ、下北沢ってこんな街でしたっけ?」と僕は脳内の下北沢に尋ねてみたのだが、そしたらどうにも「下北沢じゃない感じがするよ」という返事が戻ってきたので、ざわざわした胸をかかえつつ借りた部屋に辿り着き、ガチャっと扉を開けてみたらば、目の前にいきなりシャワーボックス(海の家でよく見かけるヤツね)がデーンと据えてあり、靴を脱いで上がった途端、自分の部屋にもかかわらず、カニ歩きですり抜けないと奥に入れないという「何、このダンジョン?」といった按配のめちゃくちゃな動線。

やっぱり部屋を借りるには実際に見たほうがいいね。