6.29首相官邸前デモについて

雑報 星の航海術

怒りでは物事は変わらないという。だから感情的になるな。
怒っている人をそうやって宥めるとき、場合によっては、怒っている人を侮辱することにもなる。決して一般的な物言いに収まりようのない、ほかならぬ私の思いを、どうしておまえが均してしてまえるのだと。

怒りは極めて個人的なことだ。だからこそ宥めるという他人事へのすり替えが、私の存在の否定のように聞こえる。

しかしながら個人的であるからこそ抑制が必要でもあるだろう。
抑制は他人から命じられての抑圧ではなく、それはちょうどホースの口をつまむようなもので、そうすれば水を勢いよく的に集中して放出させられる。

抑制は感情の中に自分が四散することないような試み。
特定の考えに飲み込まれず、落ち着いて身にとどまれるよう、複雑な感情をもとの姿に還元したとき、クールな熱情が精錬され、思考がもたらされる。
四散しては、私は私である固有性を必要としない。たんなる匿名の、一般的な感情のほとばしり、勢いだけになってしまう。やがて感情的な刺激に反応するだけのマシンになる。

怒りは決して不毛ではない。怒りが歴史を動かしてきたこともある。
だが怒りが情熱に転換されるには知性という抑制が必要なのかもしれない。そうすることでエネルギーに形と方向性が与えられる。

6.29首相官邸前デモについて思うことがある。
あのデモはこの国に住む人たちの憂いや不安が怒りの回路を通じて表現されたものだと思う。

怒りという感情の特徴は時に当たり散らす、八つ当たりという表現が伴うように散じることにあるだろう。だから、デモから一夜明けた途端、怒りの矛先は権力者のみならず、主催側にも向けられた。

事の顛末は予定よりも20分近く早く解散を宣言したことにある。一説には20万とする群衆は官邸まで数十メートルまで迫り、現場は立錐の余地がないという表現がふさわしいものであった。

数のもたらす興奮と高揚がそうさせたのか、列は警察の警戒ラインをジリジリと押し始めていた。それは膨張が自然ともたらす現象のようで、最前列から3メートルほど後ろにいた僕も後ろに押され、一歩また一歩と官邸のほうへと進んだ。

その頃合いを見計らったか、機動隊の車両が2台ほどバリケードをつくるため走りこんできた。警察のほうも危機感を覚えたと見える。そこで主催側は解散を宣言した。

これが翌日以降の実際に参加した人、現場にはいなかったが反原発の思いを抱いている人の怒りを買ったようだ。批判のひとつに「ありもしない群衆の暴徒化を怖れ、これからというときに解散を宣言し、しかもその発表を警察の所有するマイクを使って行った。それは権力者と対峙する緊張感を欠いたどころか権力との結託である」という。

警察に対しては敵対的な行動をとることが正しい、主催側には「おまえたちのやっていることはぬるい」と全方位的に挑発する。そういう全共闘世代の人たちがいた。また僕の周囲半径3メートル程度の会話、怒号を聞き及ぶ限り、威嚇行動として集まった人たちは解散などとんでもないとブーイングを浴びせていた。

そういう意見、批判に対し、どの立場でどう見るかによって事実は異なるから、とやかくは言わない。
ただし官邸前の最前列にほぼ近くにいた僕として思うことがある。

では「あの場でとるべき行動があるとしたらそれは何?」ということだ。
「であればよかった」とか「でなければよかった」という甘い物言いは抜きにして、すべきことはなんであったか?と考えたとき、体感として導き出せるのは、主催の判断は妥当だったということだ。

警察発表では集まった数は1万7000人ということだが、そんな見積りなどありえないくらいの多勢の中で、次第に後ろから推される力が増してきたのは事実で、勢いさえつけば何の目算もなく官邸前に張られたバリケードを突破しただろうと思う。
しかし、勢いづいたからということで勢いでやってしまったことは、振り上げた拳のもっていきどころのなさに似て、混沌と騒乱しか生み出さなかったかもしれない。

威嚇が必要だという意見にはまったく同意する。
でも、それをあの場で形として見せることは、具体的に何を意味するのか。機動隊の車両を押し包めば威嚇になるのか。
警察は敵ではない。これは別にラブ&ピースな考えで言っているのではなく、原発再稼働反対の上で警察は本当の敵ではない。だから敵対関係に陥って、敵を増やすとそれだけ状況は混乱する。

現場には、「再稼働反対」を小声で無意識のうち呟いていた警察官がいたりだとか、打ち鳴らされる鳴り物に爪先でリズムをとっていた機動隊員がいたという。
僕は直接見てないから、ひょっとしたら都市伝説かもしれない。それがまことしやかに囁かれるのであれば、それはおそらく集った人の「そうであって欲しい」像なんだろう。

「国民の合意が形成されるはずだ」という期待がそういう像を伝播させているものなんだろう。権力と私たちのあいだに感情が分かち合える場をつくりたい。その願いは甘いのかもしれない。
だが、力を手にした途端、容易に他者を排除しようとしてしまう傾向が人の性にあるのであれば、「それでも力に拠らず、分かち合いたい」と思えるかどうかは、人間であることの意味がまさに試されることだから、甘いどころか本当は厳しいのだと思う。

6.29首相官邸前デモについて、いろんな理屈をもちだしていろんな批判の応酬がネット上で交わされている。
僕はあまりそういうことに興味がなくて、そこにエネルギーを費やすくらいなら、もっと思考について考えてみたい。想定や仮定から「そうであるべきだった」を言ったところで、それは現実とはまったく関係ないからだ。

脳内で描いたありうべき運動論に盛り上がれないのは、デモの最中、おもしろい現象を発見したからだ。
現場では規制がかかり、流れが一方向に限られていて、だから前の人の背中を眺めながらのろのろ歩むしかなかった。というのが表向きの現象としてあった。

表向きというのは、そうではない流れがあったからで、人の渦をよく見ると逆流している人の動きもあって、それはパッと途絶えたりまた現れたりする流れだけど、そこに乗ればわりと簡単に最前列に行けたりする。
そういう流れを読む感覚の薄い人が、デモの実践性や政治的効果についてしたり顔であれこれ語っていたら、僕はもっと考えることとは何かについてから考えてみるよう促したい。

デモの現場にいながら、「なかなか前に進まない」というふうに見える現象を額面通り受け取っているだけでは、いつか現れるベストポジションを期待するしかなくて、それは「ありうべき客観的な正しさがあってそれを見つけてから実践する」という他人任せの自堕落な思考とあまり変わりないように僕には見える。

考えるという個に属する行為は、他人からは学べない。書を読み、思想を学びと他人の考えたように考えるためのレッスンをどれだけ受けても、自前で考えることにならない。

私にとって切実な、生きることに関する問題を他人事のように扱い、情報や概念や知識をあいだに挟んで客観的に捉えることは考えることにはならない。それは評論に過ぎない。
他人の人生を生きることはできず、生きることは主体的にしか取り組めないのだから。そういう視点からもう一度、反原発運動について考えてみたいと思っている。

自己の内に他人の考えを導入するといった客観性を求めることが冷静さと誤って捉えられている傾向が多分にあるが、それは自己を空疎さに明け渡すようなものだ。

客観性を約束するような、よく見えるレンズをもって世界を認識することを望むような魂胆がある限り、その認識は世界の刻一刻の運動からずれ続ける。他者の思惑を通じて見ようとする身の乗り出し方が余計なのだ。

むろん主体的に主観によって捉えるとは、自分と他人の考えの違いを排除するような自己中心の態度を意味しない。事態を正しく把握することは大事だが、正しく把握できる客観的な位置があると考え、右往左往することを思索や探求と呼ぶのは、誤りの第一歩でしかない。