聖ユーグの言葉

自叙帖 100%コークス

会社を止めて働き始めたテレビ製作会社はテレビ朝日「ニュースステーション」やNHK「未来潮流」「ETV特集」、河合塾の衛星を使った授業をつくっていた。

製作会社のAD(アシスタントディレクター)といえば、世間的には常にちょこまかと動き、あらゆる雑務をこなしていく、目端の利いた人を想像するだろうが、僕は上司の出張先のホテルにたった一枚のFAXを送ることもできず、電話の受け答えもままならず、注文すべき弁当の数もそろわず、ことごとく全方位的に使い物にならなかった。

だから、いちばん下っ端のADでありながら、上司の仕事に自分を合わせるのではなく、上司が僕をケアする始末で、ただ会社でボーっとするのが仕事みたいな日もあった。

その日の仕事がなんであったかは覚えていないが、そんなデクノボウでも徹夜してまで仕事をしなくてはいけなかったらしく、朝を迎えて眠い目をこすって会社のテレビを見ていたら、どこかで見たことのある風景が映り、白い煙で包まれていた。

1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きた日だった。
僕の実家は山頂にあった。いつも山頂から見ていた街のあたりが炎と白い煙で覆われていた。ヘリコプターからの映像はすぐに途切れ、スタジオに切り替わった。実家に電話をしてもつながらない。社長にお願いし、神戸へ戻ることにした。

翌18日、阪急電車は西宮北口駅で運行を止めた。
そこから先の線路は飴のように曲がりくねって進めない。僕は実家に向かって歩き出した。

幹線道路沿いの家は、どれも内臓破裂を思わせるように捩れ潰れて、家の前に家財道具や瓦を吐き出しながらことごとく倒壊していた。
西の空は赤黒い煙がすっぽり覆い、辺りはサイレンが絶え間なく包んでいて、轟音に眉根をひそめることもなく人々は平然と、一言も話すことなく、僕とは反対の東へと表情の見えない顔つきで黙々と歩いていた。本当に誰も話していなかった。

町でこれなら山頂にある実家は山崩れでダメだろうと家族の死を漠然と思った。まわりの惨状からしてそれが素直に受け入れられそうな気がした。

案に相違して家族は無傷だった。
その夜、眼下の町は、あちらこちら炎に包まれていて、いっこうに消火される様子もなくて、ただそれをじっと見ていた。

震災直後は神戸で見聞きしたことをよく尋ねられた。僕は震災の翌日帰ったから当日のことは知らない。父は瓦礫の中から亡くなった人を引き上げるようなこともしたが、僕はそういう光景は見ていない。

僕が経験したことは、電気が復旧してから信号も点滅するようになったが、道路が陥没したり隆起したりと車がスピードを出して行き交うこともできない交通事情であり、おまけに逆走するバイクがあろうとも警官は黙認していた中で、律儀に赤信号を守って横断歩道を渡っている人がいたことや、大阪に買い出しにいったら、震災募金を迫られたこと、東京での暮らしは貧乏だったので救援物資のおかげで太ったことなどだ。

レディメイドの情緒纏綿とした「お話」にすることに嫌悪を催す質だったで、そういうことを聞きたがる相手には、わりと茶化す話しかしてこなかった。

たぶん自分の中にあるノスタルジーを明らかにしたくなかったのだ。

僕の育った岡本という町は、いまでは何だか代官山みたいなたたずまいになってしまったけど、喫茶店とケーキ屋、パン屋がやたらあって、五月などは柔らかい陽光が木々を照らし、緑を含んだ風が山から吹いてくる。そんな町だ。
でも、僕の情感を育ててくれた町の風景はもうない。

記憶の源泉を断たれることが、自分を育んでくれた風景が忽然と消えることが、これほど辛いものだとはそれまで知らなかった。それは体の一部がもがれる気分。

ニュースで見かける、自分の育った土地を捨てた、捨てさせられ流民となった遠い国の人々の心情、あるいは還るべき郷里を失った祖父母の屈託があれ以来、少しはわかるようになった。

そして、如何にいびつな幻想、虚像であっても、帰還すべき土地、過去を理想の何かとして立ち上げてしまうことも知った。それ以降、自分の中のノスタルジアを消すことを心がけてきたように思う。

だから、なおのこと聖ユーグの言葉が滲みもする。

「世界のあらゆる場所を故郷と思えるようになった人間はそれなりの人物である。だが、それにもまして完璧なのは、全世界のいたるところが異郷であると悟った人間なのである」