震災地から東京に戻ったらクビになりました

自叙帖 100%コークス

神戸では食料が手に入りにくかったので、リュックを背負い自転車で西宮北口までの10キロを走り、それから大阪まで出る。米やチーズ、チョコレートや栄養価の高そうなものを買うためだ。

西宮まで向かう道路は陥没し、幹線道路沿いの家屋でまともに建っているのはまばらで、人が転けて倒れたみたいにマンションが横倒しになっていて、電車の線路はぐにゃりと曲がり、アスファルトは隆起し、破裂し、そこから土がむくりと顔をのぞかせていた。
高速道路は横倒しになったままだ。土建業で働いていた兄がいうには、ああいうものの壊し方が現場ではわからないから据え置かれているのだという。
それにしてもママチャリは優秀だ。マウンテンバイクでもそれなりに難儀しそうな悪路でも走ってくれるのだから。

淀川を越えると風景は一変する。そこはまったくの日常で、ショッピングモールに流れる音楽と行き交う人々のおしゃべりや靴音が響いていた。リュックを背負い汚れたジーンズに煤けた顔をしている自分は街の雰囲気とまったくそぐわなかった。

交差点で信号を待つのも久しぶりで初々しかった。ほんの20分も電車に乗れば、信号など用をなさない世界があるのだがなどと思っていたら、青年が僕を見つめ「震災で被害にあわれた方のために募金をお願いします」と声をかけてきた。え、僕に?たしかに僕よりも悲惨な目にあっている人は多いからなと思って500円募金した。

リュックに詰めるだけの食料を詰め、実家へと戻った。実家には働いていたテレビ制作会社から電話があったようで、何事かと折り返し連絡すると神戸の様相が知りたいという。ニュース番組をつくっている会社だから、できる限りの情報を知りたい気持ちはわかる。でも、様相というのはいったいなんだろうか。

僕の住んでいるところからは大阪の泉州、右手には三宮にかかるあたりまで一望できる。
けれども神戸の様相を知るという俯瞰の眼差しなどもてるものではない。地べたの実情しかわからない。

山上から炎に包まれる街が見えた。赤い小さな火が次々と広がっていく。
燃えていくどんどん燃えていった。悲鳴は聞こえない。家財の爆ぜる音も聞こえない。燃えていくさまがただ見えるだけ。救急車は間に合わない。住人たちは地を叩いて泣いたかもしれない。

玄関のドアノブ、電灯のスイッチ、靴べらの配置。そんなもののひとつひとつに記憶がある。住人の土地の記憶が込められている。それらが消えていく場を僕は見ていない。様相を知るという言葉の中には、炎の中で溶けていく人や記憶の堆積は入っていない。

取り立てて役に立ちそうなことがいえない僕は、ひとつ気になったことを話した。
それは震災翌日、報道のヘリコプターが頭上に何機も旋回し、その音のうるささが、地上の不穏な気持ちをいや増したこと。僕の見た限り、住人たちは空をきっと睨んでいたこと。

それはもう過ぎたことで何のニュースバリューもないことだとわかっていたけれど、俯瞰の視点というものの暴力をあれほど感じたこともなかったので、言わざるをえなかった。
話を聞いたディレクターがどのようなニュースをつくったのかは知らない。

2週間ほど経った。東京での貧乏暮らしでは、もやしばかりを食べていたのだが、神戸で栄養価の高いものを食べたおかげで太ってしまった。心配していた山崩れもなく、食料も手に入るようになり、インフラも復活したので、いったん東京へ戻ることになった。

神戸を引き上げた翌日、会社へ出社すると社長に呼び出された。
「申し訳ないのだが退職して欲しい」

そういうと社長は頭を下げた。被災地から戻っていきなりかよ!と思わず笑ってしまった。本当にいろんなことがいいタイミングで起きるもんだ。
のちに知ったのだが、社員は社長が頭を下げたところなど見たことがないそうだ。