報われませんでした、と彼女は残して消えた

自叙帖 100%コークス

「汚れた血」の劇中、アレックスはアンナに言う。
「いま君とすれ違うということは、世界全体とすれ違うことになるんだ」

続きのセリフは忘れた。
けれども僕の中の記憶の断片をつなぎあわせ、この後の話を進めるとすれば、さしずめ「寝取られ宗介」の北村宗介がお似合いか。宗介ならおフランス映画にありがちな「世界」なんてデカいから何でも放り込めちゃう嘘みたいで砂糖菓子みたな甘い舞台設定だって、饐えた匂いを放つ、輝かしくもない日常に引き寄せつつ、こう話を引き取るだろう。

「嘘も抱きしめ続ければホントになる。さあ、だから俺のところに飛び込んでこい!」

ここではないどこかという日常の重力から逸脱したところに飛びたい衝動が誰しもあるだろう。この重い身が跳躍できないのなら、せめて紙飛行機を飛ばし続けるようなそんな夢だって描きもする。

僕は夢の描き方が浅かった。
社会に出た途端、「しなければならない」ことを身につけることが成熟である。そういう簡単なアガリ方を覚えてしまって、素直な感情や発想を抹殺していくことを大人の振る舞いだと勘違いするなど自殺行為だと思っていたから、そんなことを強いる会社の上司だとか徳目だとか常識だとか、それらをひっくるめた目の前の現実というものは、なんのきらめきもない限りなくダサい「書き割だ」と思っていたし、その認識に確信はあった。
問題は現実否定すれば夢を描けるわけでもなくて、たんに悪態を吐くことにしかならず、呪いの言葉を吐けば吐くほど自らをすり減らしていくことだ。呪いは自らの知力と体力、創造力、美的センスを殺いでいく。

なんかよくわからないエネルギー保存の法則でもあるのか、ダサい現実をダサさの分だけ否定すれば、そのぶん自分が格好悪くなるようだ。
思いは「これは私の望む現実ではない」であってもいい。ただし、そのエネルギーは情熱に転換しないと意味がない。僕はそれに気づくのがあまりに遅すぎた。

時給500円の14時間労働というまるで明日の見えない暮らしの中で、僕はだんだんと磨り減り、悪態の塊となり、顔つきは険しくなっていた。「もののけ姫」の乙事主状態だ。とうとう遠距離恋愛で付き合っていた彼女にも、自分の擦り切れた心そのままぶつけるような、幼い行動をするようになった。

「自分のことを理解して欲しい」という承認欲求は他人に要求する前にすべきことが結構あって、それは「自分で自分が認められない行動を自分でやっている」を改めることで、他人に求める前にまず自分とのつながり具合を確かめないといけない。

話は逸れるが最近、話題の『ピダハン』をいま読んでいる。アマゾンの森深くに住む部族のピダハンは、3歳で成人を迎えるという。
つまり彼らは自己実現と自己満足をその年までに終えるのだろう。できないこととやりたことの間で葛藤するという問題を終え、3歳以降は共同体の中の役割を果たす存在となっていくのだろう。

彼ら彼女らに比べて僕はいわゆる成人後に自己実現と葛藤をメインテーマに据え、それに懊悩してみせることが人生であるかのような臭い振る舞いをするようになった。そういうことはひとりでやっていればまだしも、恋人に理解を求めるなんて、いまから思ったら恥ずかしくてたまらない。

僕らはいずれ東京で同棲するつもりで、僕のアパートに彼女の荷物を運び込んでいたけれど、付き合いが1年半を迎えた頃、さすがの彼女もほとほと呆れ果てた。別れることになった。

僕が仕事でいない日、彼女は荷物を引き取りに来た。夜、部屋に帰ると彼女の買い揃えてくれた冷蔵庫だとかあらゆる家財道具がなくなっていた。

ふと気づくと空中に黄色い紙が。ボロアパートはスイッチで明かりを入れるなどという造作はなく、垂れ下がった紐を引っ張り電灯をつけなくてはならない。その紐に大きな黄色のポストイットが貼り付けてあった。裏返すとこう書かれていた。
「報われませんでした」

爆笑してしまった。「報われませんでした」という言葉のチョイスもさることながら、ポストイットに書き付けたというセンスにやられた。
あまりおかしいのでくの字になって笑っていたら、壁にもポストイットが貼ってあることに気づき、そこには「→」が。さらに視線を追っていくとまたポストイットがあり、「燃えないゴミの日に捨てておいてください」とゴミ袋があった。

なんだか僕は泣き笑いの調子で畳にうずくまってヒーヒー笑ってしまった。

深夜、全身に蕁麻疹が出た。体のほうは彼女との別れを笑いに転嫁できるほどの余裕はなかったようだ。