東京国際中央郵便局の思い出

自叙帖 100%コークス

1995年も過ぎたあたりから、「この不況は一時的なものだ」という楽観視がニュースから影をひそめ、かわって「リストラ」や「構造改革」という文言が紙面を飾るようになった。家族に解雇されたことを言えず、出勤する体裁を装い、公園や図書館でスーツ姿の男性を見かけるようになったという話題も耳に届くようになった。

東京に来てからずっと貧乏暮らしだった僕が景気の動向について多少なりとも感じるようになったのは、アルバイトの申し込みの際、「あ、外国人?うちはダメ」と言われるようになったことだ。

バブル経済の頃、イラン人の土方をあちこちで見かけた。あるいは繁華街の露店でアクセサリーを売るイスラエル人がたくさんいたし、新大久保のいまは韓国料理屋が軒を並べるあたりは、フィリピン、ペルー、中国、ロシアと国ごとに街娼たちが居並んでいた。毎日マイホームから電車に乗って通勤するという様式の枠の外には、ときに法を冒すことがあったとしても、とにもかくにも生きるという熱だけをよすがに、日々のたつきを得ている人たちがいた。世の中の縁には、どうにかこうにかしのぐ人たちがいるものだが、そういう人たちが潮が退くように姿を見せなくなっていた。

僕がアルバイトを断られたのは、景気の後退だけではなかったろう。ちょうどその頃、蛇頭という存在が取りざたされるようになっていた。ジャッキー・チェンの「新宿インシデント」や富坂聡著『潜入 在日中国人の犯罪』で描かれたような世界がメディアを賑わせるようになっていた。

東アジア系の外国人に対する猜疑心というものがふつふつと湧いていることを感じつつあった。お金のなかった僕は毎日モヤシか大根を茹でるなり煮るなりして食べるほかなく、このまま真正面から韓国名でアルバイトに応募していても働けないのであればしょうがない。一度、日本名で申し込んでみることにした。そこで受かったのが「ゆうメイト」という郵便局で働く非正規雇用であった。

僕が採用されたのは、大手町にあった東京国際中央郵便局でここは24時間稼働しており、全国から10トントラックが横付けしては、大量の荷物を吐き出していく。
配属されたのは、5階の国際貨物課で夕方の5時35分から翌8時15分までが勤務時間だ。仕事の内容はと言えば、世界各国からやって来た小荷物や手紙を日本の都道府県ごとに振り分ける。また日本中から集荷された小荷物、手紙を国ごとにまとめるというものだ。

荷物や手紙に書かれた国名をひたすら読み取り、運び、手でひとつひとつ選別していくわけだ。郵政省のほうも読み取りを機械で行えば時間を短縮できるし、人件費も抑えられると考えたようだが、それがうまくいかなかったようだ。

広いフロアの片隅にミニ四駆のコースみたいな5メートル✕5メートルくらいの巨大な物体があり、どうやらそれがハガキや手紙を読み取る機械だったのだが、精度があまりに低くまるで使い物にならなく捨て置かれていた。
古参のゆうメイトが言うところによれば、解体して運搬するにも一千万くらいかかるから「こうしてここに置いているんだ」ということだ。一千万が本当かどうかわからない。

とにかく時間をかけるしかない仕事というのは、機械化できないところを人間の消耗で行うというTHE労働みたいな、衒いのない剥き出しなところがあって、わりと簡単に人間はすり減っていく。

さっき古参の言うことがアテにならないと言ったのはそれなりに訳があって、非正規雇用歴の長い人にある種のニヒリズムを感じるところが大であったからだ。古参の人になればなるほど、「兵隊やくざ」や『神聖喜劇』に出てくる「上等兵殿」(といっても田村高廣じゃない)みたいな、真正面からものを言うことをよしとしない態度みたいなものがあって、それが職場に横たわっているような感じがあったからだ。世の中の明るさにやっかみを覚えてしまいそうになる、それはわりと人をダメにするような空気だった。

でも、そういうふうになるのはわかる感じがした。夕方から始まった仕事は3時間ごとに15分くらいの休憩が細切れに設けられ、午前3時から2時間ばかり仮眠に入る。これが熟睡するには半端な長さで、却って体が疲れると不評だった。
非正規雇用はどれだけ望んでも労働条件が改良されるわけではないし、本当に擦り切れてしまわないためには、仕事で接するあらゆる出来事にある程度、いい加減にあしらう、疲弊してしまう自分すら放り出すことがなければやっていられないであろうことは、容易に予測できたからだ。やさぐれることも身を守る術だ。

仕事を続けていくと案外モーリシャスやマダガスカルから届く荷物が多いのだなとか、盆とクリスマスの時期はめちゃくちゃ荷物の量が増えるから、歳時の縛りというのはいまだにあるのだな、などと眠気で意識が飛びそうになる明け方にぼんやり考えたりしていた。その頃の僕は毎日疲れ果てて、深刻なことは一切考えられないようになった。
けれども、このままこの仕事をやって一生終わるのかもしれないなという予感に怯えた。この仕事に生きがいを見出している人がいたら申し訳ないが、僕に限っていえば、やさぐれたくはなかった。自分を投げ遣りに扱う沈殿の感覚を覚えたくはなかった。

このフロアの特徴だったかもしれないが、古参の人たちは基本、鼻が赤く、前歯の欠けた人が多かった。鼻が赤いのは酒焼けか。歯がないのは栄養の問題か治療するにも保険証がないからなのかわからない。
自分もいずれああなるのだろうか。なってもいいじゃないか。それは案外、鼓腹撃壌。楽なのかもしれないぞ。そんなよくわからない葛藤も生まれた。

自分のやりたいことが何かもわからず、僕はただ毎日働いた。

「ブコウスキーも郵便局で働いていたんだぜ」と教えてくれた友人がいた。ある日疲れきって家に帰ると、友人からFAXが届いていた。「機が熟さぬだけの話だ。友よ、悠々として急げ」。いまはもう珍しい感熱紙にそう記されていた。しばらく泣いた。