どこまで続く泥濘ぞ

自叙帖 100%コークス

僕は「地べたを這う」だとか「倒けつ転びつ」「退っ引きならない」という表現が好きだ。その言葉を思い浮かべたときに四肢はねじくれ、地についた手で泥を掴む感じだとか徳俵に足のかかった感じだとか、なんやかんやの土性骨加減をなんとも愛しく思う。

郵便局で働いている貧乏な時代(といってもいまと変わらないけれど)は、このまま行くと廃人生活が待っているのではないか?という予感がありつつも、自分もまた酒焼けして鼻が赤くなるような人生も「そう悪いものではないかもしれないぞ」などと夜勤明けの6畳一間のボロアパートでエレファントカシマシの「生活」を聴きながら思ったものだ。
アルバム「生活」は一曲が15分とか20分とかくらいの長さがあって荒む生活に追い風を与えるような内容であったが、ブコウスキーやジュネを読んで悦に浸る頃合いにはもってこいの選曲であったかもしれない。

郵便局とアパートを行き来する暮らしを続けた折、友人から電話があった。編集プロダクションに勤めているという彼女は「モデルをやらないか?」という。なんだい藪から棒に!というと、何でもこんど漫画家の江口寿史のデッサン集をつくるのだが、それに必要なシーンを演じるモデルを探しているのだとか。

インスタポンプフューリーが時代を忍ばせますね

ギャグ漫画家で誰を好きかと尋ねられたら、いまでもやはり江口寿史を挙げくらい好きなので、内心すごく嬉しかったのだが、モデル体型から一億光年は離れている僕には到底努まるものではないと断ろうとしたとき、「取っ払いで1万でどう?」の一声にブラック企業の従業員よろしく「はい、よろこんで!」と応じてしまった。

さて、撮影当日、現場に行くと女の子がひとりいて、聞けばタレントの卵なんだとか。で、編集プロダクションの経営者に「はい、これに着替えて」と学生服を渡される。

そんで「今夜はブギーバック」のPVに出てくるあたりの道路や公園へ行き、セーラー服姿のタレントさんをお姫様抱っこにしたり、後ろから腰に手を回したり。
今度はスーツに着替えて、彼女をエスコートする姿を撮影したり、ブランコに乗っておしゃべりしている態をしたり。

極度の緊張で口は常にへの字になってしまい、カメラマンから幾度となく「リラックスして」と言われ続け、そんで出来上がったのが、「江口寿史監修COUPLES 2」というデッサン用のポーズ集だった。

野暮の極みみたいな髪型だったのは、髪の毛を切るお金もなかったせいで、このときの取っ払いのギャラは翌日のカット代に消えた。

当座の金に困り過ぎると、困窮が当座でもなくデンと腰を据えて長居をしだすもので、そうなってしまっては、とにかく将来の姿が見えず、次第次第に滅裂する暮らしの傾きに、「自分にはこうして生活の底を浚う暮らしがふさわしい」と思いはしても、その間尺に応じた暮らしぶりでは、とうてい日々のたつきを得られず、だから貧しさは生活を四散させそうになる。

僕は毎日大根やモヤシを食べ、働いても満足に食べられず、貧しさに大わらわになってはいたが、日常に蹴つまずきそうになる足取りが、かろうじて明日に向けての一歩になっていたのも事実だった。その暮らしを取り留めてくれるのが、また貧乏でもあったのだ。

あの頃が懐かしいとは思わない。「どこまで続く泥濘ぞ」と毎日思い、地団駄踏みたい気持ちでいっぱいだった。

でも僕はどうも状況が苦しければ苦しいほど茶化したくなる悪いクセがある。
だから、いつも自分に言い聞かせていた。「こんなこと八路軍の長征に比べたら、強制連行で炭鉱で働かせられることに比べたら大したことない」と。