ある阿呆の季節

自叙帖 100%コークス

「犬が自由に走るなら どうして俺たちにそれができない?」とボブ・ディランは歌っているが、どうしたって自由に走れるように思えないのが、20代というものか。

安吾いうところの淪落の時節なのかもしれないが、淪落と言った途端、自分がにわかにディレッタントになった気分になる。
そして「〜のような」であるとか「〜的な」形容を持ち出し、ずらずらと自分の心情を飾り、並べ立てて、身も蓋もない現実の処置に大わらわになっているところを文学的な粉砂糖をふりかけてしまって、そうして現実を台無しにしながらも、気分を紛らわせる手法に長けていく。そうしたところで、この憂さが晴れるわけでもなく。

東京国際中央郵便局の仕事は日給1万3000円ほどだったと記憶している。連日働けるのならばそれなりの給与になったろうが、労働条件は隔日であり、したがって実入りはそれほどでもない。
昼夜逆転した生活で次第に睡眠も浅くなり、腹が減っているわけではないが、なにがしか食べていないといらだちが募る。
いったい飢えているのかそうでないのか。求めているのか求めていないのかもわからない。どうやって生きていけばいいのかわからない。心の中に恐怖と悲鳴が充満しているのははっきりとわかっていた。

時代の転換期はいつも「転換期」というわかりやすさをもって目の前にあるわけでなく、印と兆ししかない。
それが見える人は先鞭をつけることができるのだろうが、それには自分と社会のある種のズレをモデルとして自分に説明するだけのロジックと、それを立ち上げるだけの言葉をつくる試みが必要なのだが、僕はその努力の重要性に気づいていなかった。
苦労を重ねたり、生活の苦の淵にたたずめば、いずれ何か達成されるのだろうくらいの怠惰な考えしかなかった。

そんな他力なものだから胸底には、憤懣やるかたなさと恐怖しか募らない。僕は人と話をすべきだった。他人を引き入れることで、自分の妄想を砕くべきだったのだが、積極的に交流をもたず、だから東京にはほとんど友人はいなかった。
わずかに支えとなっていたのは、前職のテレビ制作会社の社長、彦吉常宏さんだった。ある日、思い切って訪ねることにした。

僕が会社を辞めるにいたった経緯はあまりに会社都合だったけれど、僕は彦吉さんのことをちっとも恨んでなかった。彦吉さんには長者の風があった。オトナではなく、タイジンと発音すべき、大きさがあり、僕はそこに魅入られていた。

たぶん当時、働いていた人はそういうふうに感じていたから、次第に厳しさを増す経営状況のもとでも辞めずにいたのだろうと思う。待遇だけなら他にも働き口はあったはずだから。

能力があるから生きているわけではなく、ただその人がその人らしくあればいいのだ。それを贅言をもってではなく、「ちゃんと飯は食っているのか?」といった言葉や振る舞いだけで感じさせることができた人だった。彦吉さんが動けば、風が吹く。その微風の心地よさがあった。

久方ぶりに会社を訪ねると、彦吉さんは打ち合わせを行う大きなテーブルを前に腰掛けていた。
顔は白蝋のようで、やつれたと表してもそんな言葉では間に合わない、生命が削られた感じの雰囲気に驚いた。

でも、「よく来たな」と迎えてくれ、僕はここぞとばかりに現状の不平不満をつらつらと、こんなときに限って立て板に水もかくやという調子でまくしたてた。

彦吉さんは黙って話を聞くだけだった。当時の僕はそこに失望を覚えた。なだめて欲しかったのだ。承認を望んでいたのだ。

だけど、その卑しさにも気づいていたので、話すほどにいたたまれなくなり、席を立った。

ドアから出ようとしたとき、彦吉さんは僕に言った。
「尹君、人には耐えてみせねばならん時があるんだぞ」。

僕は振り返って、明朗な返事もできず、曖昧に卑屈な笑みを返し、へどもどした態度で逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。

恐ろしいことに僕は彦吉さんがなぜあれほど精気の失せた顔をしているのか一言も尋ねなかった。心中の屈託とは、それほどまでに自分を鈍らせていた。
あとで知ったのは癌に蝕まれ、余命少ない時期だったそうだ。そのことについて彦吉さんは何も言わなかった。

歯噛みするような思いで口にしたであろう「耐えてみせねばならん」を僕はまるで理解していなかった。聞き逃してしまった。
20代は徹底的に鈍感であることを青春の疾走と勘違いできる、とんでもなく阿呆の季節でしかなかった。