肉を叩く

自叙帖 100%コークス

入ったばかりの新聞社は粒よりに奇態な人がいて、たとえば僕の前に座っていたKさんなどは、ノートパソコンひとつ入れたきりのゼロハリバートンのデカくて重くて、取材に行くには厄介この上ないアタッシュケースを「彼女にプレゼントされたから」という理由で後生大事に抱え、それがゆえに「階段を駆け上がることができない」と嘆息しており、それがためか決まって遅刻してきては上司に怒られていたので、僕は入社早々、Kさんを巨大な岩を山頂まであげるシーシュポスのように眺めていたのであった。

あるときなど赤坂見附駅から歩いて5分ほどの会社であるが、朝は246と外堀通りが交わるものだから決まって混むのは必定にもかかわらず、タクシーに乗り込み10分以上かけてわざわざ遅刻し、おまけにタクシー代をもっておらず玄関に居合わせた同僚に建て替えてもらうという珍妙なことをしでかしたのち、襟元からなんか突き出ているので、「おや?それは?」と目を凝らしたら、スーツを吊るしていたハンガーごと着込んでいたというマンガのようなことをしでかしていた。

毎朝の儀式となっている上司の叱責を受けた後、Kさんは席に座り、いかにも調子の悪そうな顔つきで、かなり大きな声でひとりごとをいう。
ようは遅刻の理由を問わず語りに言うのだが、それが日常となっている同僚らは、何も突っ込んではいなかったけれど、入ったばかり頃の僕は、Kさんの言動に対する目測がわからず、毎日聞いていたらば遅刻の理由が重篤さを増し、「今朝、実は血を吐いたんだよね」と言った彼の鼻の下がくすんだ暗赤色をしているのを見、たんなる鼻血に過ぎないことを認めた時、遅刻に関しては手を変え品を変えての盛った表現なのだと得心がいった。

でも、Kさんは毎朝真剣に遅刻に対し、反省ないし悔恨をしているのは疑いようもなかった。
なぜなら「俺はもうこの仕事に向いていないから止めようかな」とこの世の終わりに吹く風はかくやと思うような陰陰とした深い溜息とともに言うからだ。

僕としては「適性の問題ではなく、家をもう少し早く出ればいいだけだと思いますけれど」と言いたいところだけど、先輩の海より深く反省する様子を見てはそうも言えない。

なだめているうちに奮起し、「よし、やるぞ!頭をしゃっきりさせないとな!やっぱりコーヒーだね。コーヒー淹れよ、コーヒー」と機嫌よくコーヒーメーカーに向かう頃には始業からだいたい1時間は経っており、午前中に入稿しなくてはいけない記事のアウトラインくらいデスクに報告しなければいけない時間帯だが、「まあコーヒーいっぱいくらいね」などと思っていたら、だいたい30分経っても帰って来ない。

先輩はミートハンマーを持参して業務中に肉を叩いていた

その間、どこに行っているのかわかかなかったのだが、入社して数週間後、もうひとりの先輩が苦々しく僕に「ちょっと様子を見てきて、下のキッチンに」という。会社の地下一階には仮眠室とキッチンがあって、そこを見てこいという。

へ?と思い、言われた通り、キッチンに行ったらKさんはニコニコした顔で「昼に美味しい肉を焼いてあげるよ」とミートハンマーでステーキ肉を叩いている。言っておくが、いちおう新聞社であり賄いなどはない。

あまりのことにデスクに戻り「Kさん、なんか食べた時、口の中で肉が喧嘩しないように柔らかくしてますけど」と報告したら、先輩は「あのバカ!」と言ったきりで、かわりに原稿を書き始めた。

Kさんはいつもみんなに迷惑をかけている。「だから昼ごはんをご馳走したい」という、僕らの想像の次元を越えた深い悔恨をしていた模様で、よかれと思って肉を叩いていたのだった。
僕もそういうトンチンカンなことをしがちなので、Kさんの心中を察すると思わず目頭を抑えたくなるのだった。