類推の山への登頂

雑報 星の航海術

繰り返し読む本にデュラスの『モデラート・カンタービレ』やマンディアルグ『満潮』、夏目漱石『それから』、ホフマン『砂男』、ヴィアン『うたかたの日々』などがあるが、とりわけルネ・ドーマルの『類推の山』がお気に入りだ。

世界の中心に聳える山。それは確かに存在しはするが、光の過剰ゆえに不可視であり、類推をもってしか存在を知り得ない。本作は、いまだ人類未踏の至高点への登攀を目指す旅を綴った小説だ。

寓意に満ちたシュルレアリスムを象徴する作品であり、おまけに未完と聞けば、“それは素敵なうわ言ね”で片付けられてしまうかもしれない。
けれども、僕はこの小説を現実を生きる上でのガイドラインとして読んだ。

この本に出会ったのは27歳のときだ。いろいろあって勢いで会社を辞め、恋人には「あなたみたいな人生をまじめに考えていない人とはやっていけない」と、ものの数分の国際電話で別れを告げられ、いよいよもって先行きが見えなくなった時節の到来に、膝を抱えてルー・リードの「Walk on the Wild Side」を聴くという日が続いた。

夏に入って何もすることがない。だから地元兵庫で書店の店長を務めていた友人のもとをぶらりと訪ねた。
駅まで迎えに来てくれた友人のバンに乗り込むと、ステレオから聴こえてきたのは、奥田民生の「さすらい」だった。タイミングが良過ぎるだろうと思ったのを覚えている。

友人宅で2日ほど過ごし、別れの朝、手渡されたのが『類推の山』だった。彼は言った。

「おまえの思っているようなことが書かれているぞ」

遥かに高く遠い山。その峰には近づき難い。だがその麓は近づきうる。
比較することのできない唯一の、至高的な存在であるその山は、地理学的に存在しつつも、あまりの光の激しさに直視することができない。

至高性とは暮らしから隔絶したものではない。生活の営みの範囲に存在しながらも、日々のたつきを得るに腐心することをもって生活とする人間には見えない。

寓意とは現実の輪郭の射影だ。僕たちの思う現実は大抵の場合、「現実的」であって、それは自分にとっての現実でしかない。極めて個人的なものでしかない。

寓意は、寓意によって「現実的というよくできた偽物の背後にある、次元を異にする何かの気配を語っている。
そうであるならば、類推とは、地にのべた影をもっていっそう高いところから光を放つ源を知る行為か。

僕の好きな言葉に「熱望する愛の鋭き投槍を以て厚き不可知の雲を射よ」がある。作者不詳の『不可知の雲』に書かれた一文だ。

不可知の事柄への接近は不可能事なのだろうか。
いや、世界について全き知ることができないのは事実にせよ。だからこそ知ろうとする歩みは可能性に満ちているのではないか。

この一足が新たに現実をつくっていく。『類推の山』はそのことを教えてくれる。