近代という思春期

自叙帖 100%コークス

「新しい歴史教科書をつくる会」が1996年に結成された。いわゆる“自虐史観”を脱却するという触れ込みと、発起人が西尾幹二氏や漫画家の小林よしのり氏、民俗学者の大月隆寛氏と、多士済々?ということもあってひと頃話題になったのだけど、覚えている人はいるだろうか?

僕は取材で決起集会に参加したのだが、元プロレスラーの前田日明がパネリストとして登壇し、いつも以上に滑らかさの欠いた口調で何やら思想めいた思想と政治めいた政治について語っていた、ような記憶がある。(だって前田日明の話から三島由紀夫とか国家とか名詞を抜いたら意味不明なんだもの)

大月氏にいたっては羽織袴で挨拶を述べるなど、本人は晴れがましい表情をしていたものの、氏の書いた原稿を学生時分から読んでいた身としては「思えば遠くへ来たもんだ」の感慨ひとしきりであった。(ナンシー関が生きていたら総括としてどう述べたであろうか)

僕は「自虐史観」という語がおもしろいと思った。彼らの主張をまとめると史実論争は表向きのことで、その根底にあるのは、「自分たちは決して悪いことばかりをしていたわけではない」「いいこともしたし、あいつだって悪いだろ」「プライドをもって生きるべきだ」にわりとまとめられる。
こういう主張は何かに近いなと思っていて、行き当たったのが「思春期」だった。

近代化というのは、人類にとって思春期みたいなものを国家や国民規模でやらかす季節で、腕力を見せびらかすとかやたら威張るとか、そんなふうに勝ち負けが序列化されているもんだから、強者にはコンプレックスを弱者には尊大さを以て接し、立ち居振る舞いの醜さを自覚しないでいるとか、時が経てば恥ずかしいとしか思えない傲慢さと卑屈さを往還することでしか自分を保てないという自己愛まっしぐらの暴走をやらかす。

自己愛、つまりは偏したナショナリズムに淫することを平気でやらかすのが近代の特色ではないかと思う。国威の発揚が自我のふてぶてしさを保証するというか補完するというか増上慢にさせるというか。
己のよすがが「◯◯人である」ことと、6文字に収まってしまう言葉に圧縮されてしまうことに限りない喜びを覚えるという倒錯を疑いもしなくなる。自分よりも自分の帰属先のほうが大事になるという、およそ人間以外の生命体では考えられない愚劣なことをしでかす。

覚えた概念で人を侮辱し、ときに殺すことも厭わないというかなりヘンテコな季節を過ぎた後、我に返り少しは大人の階段登り始めるのがポストモダンではなかったか?と思っていたんだけど、自虐史観という語の登場にまた思春期に戻っちゃったと感じてしまった。

僕は論争が苦手で、まして自分の構築したオリジナルの論を展開するという長距離走者のような体力も気力もない。そのかわりそのようなことのできる人の話を聞き、まとめるのは好きだ。
そこで上司に「識者に歴史認識についてロングインタビューする企画をシリーズでやりたい」と言ったところ、即決となった。

僕は善悪是非で物事を語るのが好きではない。「好きではない」などと超個人的な感覚でものを言うのは、一般性を欠くけれど、一般性を獲得するために旗幟鮮明にして論争になって、じゃあそれで何が生まれるのかわからない。ときに生産的な論議だってあるのかもしれないけれど。

だからといって、僕は「好きではない」という超個人的な感覚に退避して、そこからセンスのあるなしで物事を裁断していくような、美学とかに引きこもる趣味もないし、なんかそういうのってみっともない。

佇まいとしていけているかどうか。生物としてオッケーかどうかが僕のけっこう気にするところで、不都合な事実に対してもちゃんと斜に構えて対したい。
いまでは「斜に構える」というと、皮肉さと冷淡さとして解されているが、語源となった剣術の「斜の構え」とは会敵に際し、相対するということで、ちゃんと向き合うという意味だったはずだ。

論争に参加せずに、善悪是非で語らず、だからといって自分の生理だけに退却せず、でも生理は大事にする。そういう構えから物事を見るとき、僕は現実だと思われている事実と同時に可能性のほうを見たいと思ってしまう。
常に「それ以外の光景」を見せてくれる何かに出会いたい。

そういう話を聞ける場として、僕はロングインタビューに関わることにした。