歴史を見る作法

自叙帖 100%コークス

「歴史認識と日本人」というタイトルで始まったロングインタビュー企画のトップバッターは櫻井よしこさんだった。ニュース番組のキャスターを降板された直後で知名度も抜群の彼女が超マイナーな新聞に登場してくれたのも不思議だったけれど、なにがかしか彼女の心をくすぐるテーマだったのだろう。

15年くらい前の櫻井さんは、いまのような「ウルトラ」な感じではまだなかった。ウルトラな感じというのも、ウルトラの後に何を付けるのが適当なのか、いまの櫻井さんを見ているとわからないからだ。保守というのではしっくりこない。

彼女に限らず、金美齢氏とか、呉善花氏とかフィフィ氏とかをなんと形容していいのかわからなくなる。姜尚中氏くらいDVDを出すくらいの臆面のなさはそれぞれもっておられそうだけれど。
櫻井さんの場合、「ウルトラ」で止めておくので、読んだ人が適当に付けておくのがいちばんいいかもしれない。

15年前のインタビューで彼女が何を話されたのかちょっと覚えていないけれど、たぶんこれまでに書かれた本を読めばわかると思うので、内容を想起するのは割愛するけれど、それよりも僕が覚えているのは彼女のゴージャスなヘアスタイルだった。
真近にみると想像していたよりも根本からの立ち上げがすごくて、クマノミなら何匹でも隠れそうなので感心したのを覚えている。

櫻井さん以降、鈴木邦男さんに色川大吉さん、朝倉喬司さん、吉田司さんと右も左も関係なくインタビューを続けた。

一水会の鈴木邦男さんは「国家のしでかしたことのすべてを良しとするのはおかしい。個人の人生を振り返っても良いこともしたけれど悪いこともしたし、いろいろあっての人生だとわかるはずだ」と平易なところから自説を説かれ、「いまでもろくな人間がいないのになぜ昔は立派な人間が多かったといえるのか」と話されていた。

色川大吉さんは元海軍の少尉。学徒出陣で出征し、特攻隊として出撃を待つ身で敗戦を迎えた。べらんめえ調の話しぶりがおもしろく、中でも民俗学者の大月隆寛氏について「民俗学はオーラルヒストリーの中に歴史を立ち上げるのに、そのことを忘れている」と痛烈に批判されていた。

犯罪や芸能に詳しい朝倉喬司さんとはインタビュー後、慰安婦や女衒の話をひとしきりした。文字や文書になっていることでは決してわからない奥行き。悪と犯罪は重なりながらも微妙な次元の違いがある。

歴史を振り返ればわかるのは、悪ではあっても罪にはならないこともあれば、罪に問われるが悪とも言えないようなことがある。親殺し、子殺しと止むに止まれぬ事情から起きてしまうことがある。

それらを悪と善に分断し、線を引くのは社会的な行為だ。だが、起きてしまったことを誘発したのは、社会の外からの呼びかけだったりする。
それを然らしめたものは何か?と問うたとき、明文化などできない。わずかに「業であるか」とひとりごちるとき、かき口説くように唄われる歌をはじめ芸能に、人が向こう側にわたって行くさまに哀切を見る。そういう作法を僕は朝倉さんに学んだ気がする。

吉田司さんは「村で起こした不祥事の清算には三代かかる。まだ50年しか経ってない」と、水俣の若衆宿で暮らしたからこそわかる、人の情の骨絡みのさまの土着さから歴史を見ておられた。それは文献だけを見て、俯瞰的に眺めている学者にはわからないことだ。鳥瞰図に対し虫の目をいう学者もいる。でも吉田さんの眼差しはそういうきれいに描かれる観点でもなかった。

得体の知れない人の業を知るには、同じものを食い、土にまみれ、決して栄光に反転することのない汚辱もありえるかもしれない生に没して初めてわかることかもしれない。
庶民として生を受けるとは、ひしがれて生きざるを得ず、最期は臓物をさらけ出して死んでいかざるを得ない宿命を生きることを意味した歴史が圧倒的に長い。

差別という言葉でそれを語る余裕もないほど、暴力は不意打ちに命を奪いもした。そういう連綿とした歴史の中で近代の戦争を捉えた時、また異なる相貌を見せ始める。

歴史を見るとは人の業を見るということで、その醜怪さを見据えるには勇気のいることなのだ。僕はインタビューを続けながら、次第にそのように感じるようになった。