不良債権化への道

自叙帖 100%コークス

リレーインタビュー「歴史認識と日本人」シリーズは半年をまたぎ、トリは西部邁さんと相成った。

1997年当時の西部さんは、まだ“論客”だとか“識者”の位置づけであったように思うけれど、その格付けの礎をなしていたはずの論壇とやらが「偏に風の前の塵に同じ」よろしく、ピューッと吹かれて何処へか、そう「あの人は風のように去ってしまったの」的な回想でしか相まみえることのなくなった今日では、西部さんの貫目も読者諸氏にはわかりづらいだろう。僕もわからないけれど。

赤坂のニューオータニでお話を伺った。その内容を事細かく覚えてはいないが、鮮明に覚えているのは「ずいぶんと放言されるなぁ」であった。歴史において起きたことは起きたことで「自虐」というものの捉え方ははありえない、といった趣旨だったように記憶している。

それがなにゆえ放言に映ったかといえば、その発言の是非ではなく、言葉を紡ぐ緊張感が見当たらなかったからだ。
自身の体験から鍛造していくのが思考だけれど、うっかり誤ってしまうのは、体験の骨法は「体験されなかったこと」を体験から感得していくことにあって、体験に自分を委ねることじゃない。

たとえば、ぬるま湯も寒いところにいた人には熱く感じるだろうし、暑いところにいた人にすれば冷たく感じる。それぞれ自分が感じていることは嘘ではない。けれども本当でもない。

体験は自分の感じられたものは何であるか?へと迫るためのジャンピングボードであって、決してゴールではない。答えを出してしまって、それで当人は悦に浸るとしても、そこで生が行き止まりになることはないので、確固とした考えを抱いた瞬間から銅像めいたものになってしまう。つまり生きているようで生きていない。
かつて煌めきを見せた人物が褪色して見えるのは、たぶん自分の得た考えで自分を塗り固め始めるからだろう。

西部さんのインタビュー記事は、保守系の雑誌などではコテコテの演歌よろしくいつでも流れているグルーヴだったから取り立てて珍しくもなかったのだが、鈴木邦男さんや櫻井よしこさんといい、良識を以って任じる在日コリアンからすれば許せないことだったようで、それが社内に燻っていた派閥とか方向性とかの問題に火をつけてしまい、僕の企画を後押ししていた上司が社の体質に嫌気を感じてしたこともあって、辞めることになった。

上司は上司で辞めるタイミングを探していたようで、最後の出勤でデスクを片付ける際、嬉々としていた。で、それから一ヶ月後、ついでに僕も辞めることにした。

ついでというのもずいぶん軽い話だが、1年半も会社員生活を続けられたのは、その上司と過ごす中で変化できる自分を感じられてからで、彼のいなくなった会社に薄給を貰うためにしがみつくことに意味を見出せなかったし、そうしたら必ず腐ると感じたので、辞表を提出することにした。

個人的には清々した、晴れやかな気持ちで「ほら、あすこをご覧、空に虹がかかっているよ」な気分であったが、同じ光景に暗雲を見て取る人もいることに鈍感な僕は気づかなかった。

当時、僕にはお付き合いをしていた人がいて、僕の心の中では大いに盛り上がりを見せていたのだが、会社を辞めることを事後報告してしまった。これが逆鱗に触れたらしい。“らしい”というあたりでもうダメだけど。
ともかく別れ話は5分ほどの電話で済んでしまった。最後に言われたのは「あなたのようにまじめに人生を考えていない人とはやっていられない」だった。

いまならわかるよ、彼女の気持ちも。たとえば、せめて次の転職先を決めてから辞めたほうがよかったのだろうと思う。「と思う」という文言をつけているのは、「自己本位ばかりが芸ではなく相手を不安にさせないのが関係性で、そこを慮ることも大事」と学習したからだ。

だけど当時の僕は「あれ?まじめに考えたから辞めるだんけど?」と、別れ話を切りだされてもなお彼女の言動の意味を掴み損ねていた。

思えば、彼女に「なんであなたは世に出ようとしないの」と言われ「世の中にすでに出ているのに、これ以上どこへ出るの?」とか、「努力をしなさい」と言われたら、これまでの人生で努力なんかしたことないから、「努力するための努力から始めないといけない!」とあらぬ方角に考え始めるとかやらかしていたものだ。

彼女にすれば、隔靴掻痒だと思っていたら、最終的に僕は靴を履いてなかったみたいな。
裸の王様なら地位もあろうものだが、そばにいるのが裸足の庶民で、そんな面倒な男に“イノセンス”とルビを振ったところで実相が変わるわけでもなく、いずれ不良債権化は免れないと思っても、そりゃ仕方ないなと当時を振り返って思うのだ。