突撃取材

自叙帖 100%コークス

会社を辞めた後、毎日夕刻には朴葉の高下駄をひっかけカランコロンと鳴らしつ銭湯へ。近隣の子供らには「わぁ、天狗だ。ねぇねぇ、お母さん天狗だよ!」などと言われる。帰りに飲みなれない小瓶の日本酒などを買っては猪口一杯で酩酊する。一度やってみたかった無頼、とは到底いえないが、長屋の浪人の無聊をかこつくらいには言えるような日々を過ごしていた。

それからしばらく。僕は人の紹介で毎日新聞が発刊している週刊誌の「サンデー毎日」の仕事をすることになった。前職のミニコミじみた新聞社で働いている時代、議員会館で拉致問題をめぐる記者会見がときおり催され、そこで各新聞社の記者と面識ができたが、もっとも話をしたのは毎日新聞の記者だった。

この辺りが餃子の皮に似ている

現場で見かける記者のスーツでどこの新聞社かわかるものだ。いちばんパリっとしているのは朝日、次いで読売。産経、毎日ときたら、折り目も行方不明になったパンツに、型の崩れたポケット、足元はわりとギョウザ靴率も高めだった。総体的にグダグダな感じがなんとなく好感をもてた。

初めてサンデー毎日の編集部を訪ねたとき、記者の格好がああいうものであったのも合点がいった。メジャー紙なのに場末感の漂うこと夥しいものだったからだ。

ともかくサンデー毎日で記事を書くようになったのだが、何を取材してまとめたのかほとんど覚えていない。記憶に鮮やかなのは、いつも取材はしどろもどろで、まとめた記事も覚えめでたいものではなかったことだけだ。
週刊誌の取材はじっくり時間をかけるというよりは、パッと要点をつかむようなものでないといけない。そのうえまとめ方も週刊誌のスタイルというものがある。

あるとき僕の入稿した原稿を読みながら、編集長はこういった。「週刊誌の読者はサラリーマンだ。彼らは疲れている。だから考えさせるような文章を書いてはダメだ」。

「なるほど、そういうものか」と思いはしたものの、そんな記事は書けないのは僕も編集長も承知で、だから普通ならば、「はい、さようなら」と仕事が回ってこなくなるのだが、編集長は心優しい人だった。
「まぁ、こいつも何か使い道があるだろう」と算段してくれた模様で、しばらくすると、ある関東の大学病院に行くように言われた。

その病院の医師が医療過誤で遺族に訴えられていたのだが、僕の仕事は「当該の医師に直撃インタビューせよ」というハードルの高いものではなく、「取材する記者の付き添いをするように」という内容だった。
病院もピリピリしているであろうから、たとえばアポイントなしで医師にコメントを求めたら、状況によっては守衛なりが制止に来るかもしれない。それを押しとどめるくらいの時間稼ぎには使えるだろうと思ってのことだったろう。

僕が同行することになった記者は現場に出るのが好きな人で、というかだからこそ週刊誌の仕事をしているのだから当たり前で、僕みたいなインドア派がするべきではないのだが、病院に着くや彼女は当該の医師がどこにいるか、怪しまれないように尋ねており、「そうか、こういうふうに取材をするのだなぁ」と思っている僕はといえば、とりあえずすることがないなと思って待合室でボーっとしていたのだが、いつの間にか鼻ちょうちんを膨らませつ船を漕いでおり、しばらくすると肩を叩かれ、「行きますよ」と起こされた。聞けば病院の公舎で医師の帰りを待つのだという。

寝ぼけ眼の半眼が目頭切開したかと錯覚するくらい、で冬の北関東の冷たい風で目が開いた。僕は寒いのとか暑いのとか苦手な虚弱児で、おまけにテレビ製作の仕事をしていた時から「ただ待つ」ということが本当に嫌なタチで、そんな自分が病院の公舎についてひたすら近くの電柱のそばから医師の帰りを待つというのだから、早くもうんざりで、「今日のところは引き上げましょう」という口実はないものかとあれこれ考えて、隣にいた記者を見ると、彼女は「八甲田山」において「スタッフが寒いのに自分だけ温まるわけにはいかない」と雪中立ち続けた高倉健のような面立ちで、公舎をじっと見ているのだ。そのプロ根性にさしもの僕も襟を正した。

待ち続けること3時間あまり、10時近くに公舎に男性がやって来た。それっとばかりになぜか僕は駆け出した。たぶん彼女の記者然とした態度に感化されたものと見え、本来ならば彼女がするはずの仕事だが、その男性に「◯◯さんですか? 遺族についてどう思われていますか?」と切り出してしまった。

すると男性は「誰ですか、あなたは?警察を呼びますよ」と言い、僕は「わー、逃げろー」とばかりに電柱に舞い戻る。同行した記者はチッと舌打ちしていた。

靴が隠れるくらいに降り積もり始めた。今日は解散しましょうと彼女はいい、僕らは駅でわかれた。もちろん、それ以来、彼女と仕事することはなくなった。