あれは29歳の桜も散り、ようよう夏の匂いが風に混じり始めた頃だった。仕事もなく無聊といえば格好はいいものの、毎日遅くまで起きて目覚めは「笑っていいとも」とともに迎えるという、のんべんだらりとした自堕落な暮らしをしていた。
あまりに暇なので毎日近くの図書館に通った。そうしてこれまで読んだことのない本を片端から読んでやろうと、手始めに『水滸伝』を借りた。
『水滸伝』は滅法おもしろい。これが江戸の日本のサブカルチャーを大いに刺激したというのもわかるものだわい、などと思いつつ瞬く間に全巻を読破。
さて次は、と図書館の棚を物色するうちに、なぜか池波正太郎、向田邦子などを借りた。これが逆鱗に触れた。いや、自分で自分の逆鱗に触れるっておかしな表現で、自分のことだから触れなきゃいいのだけど。
『剣客商売』に出てくる三冬の描写にイライラして読み進めなくなった。『剣客商売』を読んだ人もいないだろうからちょっと説明すると、主人公の秋山小兵衛の息子、秋山大治郎と恋仲になる男装の武芸者で、まあツンデレキャラだ。古典的だ。
古典的だけど、普段勝気な女性がヨヨヨと崩れる様にグッと来たりする習性のない僕にとって、こういうお話は設定が「江戸時代」である必要は根本的になく、すぐれて現代じゃないか?と思ってしまった。
(余談だが、後に『サンデー毎日』で一度だけ書評の仕事をしたのだが、それも江戸時代の時代小説だったが「これって現代のサラリーマンを江戸に置き換えただけで時代小説である必然性がない」と書いたら、「身も蓋もないこと書くな」と言われて、以来依頼は来なくなった)
こんな都合のいい女性っている?と思い、あまりに不思議だったので、僕が敬愛する知り合いの編集者さんに尋ねたところ「それはね、池波正太郎(に限らずその世代の男性に見られるけれど)が知っていた女性はクロウトかお母さんしか知らないからよ」と返され、なるほどと膝を打った。YOSHIKIなみに乱れ打ちまくった。
そこから今度は向田邦子の『あ、うん』を読んだところ、男同士の友情という名で紡がれるベタベタした関係と、娘が父の所有物みたいに扱われているところに辟易とした。
「辟易とした」で放おっておくと、たんに「向田邦子が嫌い」で終わってしまう。それは嫌なのだ。
僕は好き嫌いが激しいのだが、「嫌い」って言い切ってしまうところに歯切れの悪さを感じる質で、自分でもけっこう面倒くさい。言い切っているのに歯切れ悪いっておかしな話だ。
でも、「生理的に嫌い」という断定は、自分の中でひっかかりがあるからできてしまえることで、「ひっかかりがある」とは自分の中の詰まりだから、気持ち悪さは外にあるのではなく、自分の中にある。
向田邦子はお父さんが大好きで、お父さんと私の関係性を外に延べている感じがある。それが嫌なのか?と思ったけれど、じゃあなんで森茉莉はおもしろいと思うのか。森茉莉だって森鴎外大好きじゃないか。
僕は毎日図書館に通い苦手な向田邦子を借りて読み、あいまに森茉莉の『贅沢貧乏』を交互に読みながら考えていた。ある日のことだ。図書館からの帰り、小脇に「米朝落語」のCDを抱えて歩いていたら、ふと別れた彼女の事件の意味がぼんやりわかった気がした。
事件というのは、家に帰ったら彼女の家財道具一式がなくなっていて、電灯の紐にポストイットが貼り付けられ「報われませんでした」と書いてあったという例の事件だ。
僕はあれ以来、「報われませんでした」の意味をしばしば思い出しては考えていた。池波正太郎と向田邦子問題を考えるうちに、謎として残された言葉の意味の一端に触れた気がした。