啓蒙の幕開け

自叙帖 100%コークス

池波正太郎も向田邦子もいまだに人気があるのは、書かれた内容にリアリティを感じる人がけっこうな数いるからだろう。
でも、なんのリアリティなの?と問われても、「今日は活きの良いリアリティ入ったよ!」ってな具合で見せることができないような、ふわっとしたものじゃないか。

池波を軸について今日は書くけれど、天ぷらの食べ方とか蕎麦屋での所作について書かれた『男の作法』なんて本が長らく読み継がれているくらいだから、リアリティというものは実際のところ相当ふわっとぼんやりしている。

だって輪郭をなぞりたがる人がいるといういうことは、輪郭でしかぼんやり描けないのが「らしさ」の本体ということをどこかでわかっているということで、つまりはそれはリアルの一端ではあっても、リアルとは違うということだ。

そうでありたい姿を強調すれば、そうではない自分の姿が炙りだされて来るのだし、それがいちばんリアルなのだが、「それはさておき」という形で、社会的に流通する(と思い込んでいる)姿に自分を似せていくことを人格の獲得というふうに勘違いしているから、男としての作法みたいなプロレスをやるはめになってしまう。

それは一見すると「大人になる」ということと似ているけれど、よくよく嗅げばぜんぜん違って、その違いを自覚していないと、むしろ大人になることから遠ざかることにさえなる。

プロレスを自覚していれば、それはそれで芸として成り立つ局面もあるのだろうけれど、前回書いたように池波の作品に出てくる女性がけっこうヒドいのは、彼の知っていた女性は「クロウトかお母さん」だからという身も蓋もないオチに終始してしまうならば、男らしさの通じる場所はけっこう狭いし、その依って立つところはわりと情けない、超個人的な思い入れでしかないということになる。

でも思い入れや幻想が悪いのではなく、それが常に限定された環境の産物で、だからこそリアリティをめちゃくちゃ感じるのだけど、「現実とは関係ない」ことをどこかで知っておかないと、自分の見ている世界が世界のすべてと取り違えてしまう。

前置きが長くなったけれど、1995年の秋に、僕のアパートの電灯の紐に「報われませんでした」と記したポストイットを貼り付けて去った彼女の心のありかが、池波正太郎と向田邦子を読んでいるうちにわかってしまった。

僕は池波正太郎のことを笑えないくらい、あるモデルを通じて彼女を見、接していて、彼女自体と触れ合ったことはなかったのだと気づいた。彼女からすれば、僕の眼差しは常に彼女を素通りしていたのだ。いま目の前にいる彼女と話しているのではなかったのだ。

だからといって、「クロウトかお母さん」のうち、僕はクロウトとは接点がないし、自分がママを恋しいと思ったこともないし、むしろ母親が早くに亡くならなかったら大変だったと思っていた口だ。

ただマザコンというのは、「ママと引き比べて異性を評価する」に限らなくて、それが問題の難儀さにつながっている。ようは「最初に出会った異性が自分を全面的に受け入れてくれるがゆえに相対化しにくい」ことで、だから、つい異性に自分を理解し、受け入れてくれることを求めてしまう心性が芽生えるどころか根を張ってしまうことに気付けない。
そうなると「クロウトもお母さん」も実は同じ役割を求めていることでしかなくて、そこに気付けないところがマザコンの根深さなんだと思う。

あるモデルを期待し、それを通じて女性を見るということを自分がナチュラルにやっていたことに気づいて愕然とした。
全然それはナチュラルじゃなく、極めて個人的な体験でしかないんじゃないか?と感じ、そのナチュラルさ加減がどこからやって来たんだと考える一方、僕は上野千鶴子やスーザン・ソンタグ、アドリエンヌ・リッチ、ジュリア・クリステヴァ、リュス・イリガライを片っ端から読み始めた。
啓蒙の時代の始まりだった。