人の心がわからない

自叙帖 100%コークス

人生においては否応なく己の馬脚を現す瞬間があり、できればそんなみっともないことは他人はもちろん、自分自身に対しても見せたくはないので、馬脚を隠すほうに力を注ぎがちだけれど、もともとケンタウロスみたいに馬脚がしっくりいっておれば問題はないのだろうが、にわかに生えてしまった脚はアンバランスをもたらす上に放っておくと次々と現れるから厄介だ。

だから、馬脚に対してできることは、その都度に斬っていくほかなく、だから生の終わりをとりあえず死に置いて、それをゴールとするならば、ゴールラインに着くのが鼻先なのか、それとも馬脚なのか。そこはけっこう重要な問題だと僕は思っていて、できれば前のめりで倒れこんでも鼻先でありたいと思っている。
それは無様な姿を駆けている最中に晒し続けることでもあって、ちっともスマートではない。

スタイリッシュに決めようとしたところで、もとが啓蒙を要したくらいの野暮天なのだから、何をか言わんやではあるけれど、前回書いたように、片端から書物を読んで己の中の馬脚を斬ろうとしても、現実の無様さはいかんともしがたい。

「ものごとの考え方」という、うっかりそういうパッケージ化された形があると思えてしまうことがどだい誤りで、考え方はがらりと改められると思って、その改めに従って、自分の生き方も変わると思いがちではあるけれど、そうは問屋が卸さないものだ。
くだくだしく何を言っているかというと、自分の女性に対する考えの歪みを実感し、それを正す方向で書を読み、自分の内を精査するような作業を数年してきて、これでわりと大丈夫じゃね?と思い始めた頃、ある人と出会い、お付き合いすることになった。

啓蒙にルビを振るならさしずめ「リハビリ」が適当かと思う。僕はリハビリ期間を終え、満を持して異性との付き合いに臨んだのだが、認知の歪みはそれなりに正されたかもしれないが、久方ぶりにお付き合いというものを始めて知らしめられたのは、自分がこの数年取り組んでいたことは結局のところ壁紙を替えるとか、シンクをIKEAで統一するといった表層的なリフォームに過ぎず、抜本的な問題をむしろ遠ざけていたのだということを突きつけられた。

自分の問題は、経験のなさから来る、ある「ものごとの考え方」の深度の足りなさではなく、どだい人の心がわかっていないところにあるんじゃないか?と思わされる事件が陸続と起きたのだった。

こういうことを書くと、「いや、人の心なんて誰しもわからないものだよ」と言う人はたくさんいるけれど、そう言っている人も僕と数日でも過ごせば、イライラすること請け合いだと思う。

それは鈍感とかなんとか言うレベルではなく、同じ言葉を話していながら言葉の限界を感じさせるような体験をさせるらしい。
でも、それを広汎性発達障害とか言ってしまうのは超絶につまらないので、そういうことに寄せて考えはしないけれど、ともかく同じ言葉を話しながら絶えず捻れの位置にあり続けるという、絶妙な違え方をするらしいのだ。絶対にその解釈だけはおかしい、という「だけ」にコミュニケーションをほり込んでくるらしい。

「らしい」と言ってしまうのは本人には自覚がないからで、これもひとつ他人をイライラさせる要因になっているのだろうと思う。