心のすれ違うときでさえも

自叙帖 100%コークス

服ビリビリ事件から雌伏3年、僕はまた人と付き合う機会を得た。
こんどこそは心の読み間違えだとか、おかしなことをしないようにと心中期するところがあったものの、オチから言えばわずか3ヶ月で終わった。

ある日、呼び出されて「仕事で忙しくなったからいったん距離を置きたい」と言われた。距離を置きたいって別れたいってことだよね。聞けば同じ職場の上司を好きになったという。
僕は号泣した。
30歳超えたおっさんが過呼吸になるくらい号泣した。自分でもびっくりした。

別れ話というのは儀式だとわかっているよ。それに付き合わせるのも悪いなぁという思いもあるけれど、一区切りつけるためには仕方ないじゃんかと彼女、というか最早、元彼女を前にして思う。
何がどうしてこうなったの?な話を今更しても仕方ないし、心変わりを非難したってしょうがない。だって好きになった人のことを非難するなんてできないしね。

だから言えることといったら掻き口説くことしかできないわけで、ひとしきりこの3ヶ月を振り返っての思い出を反芻するなどという、超絶に不毛なことを述べるしかない。

自分の感情の置きどころがないから仕方ないのだが、それはこちらの悲しみモードの話であって、相手にしてみれば、いますぐ新しく好きになった人のもとへと飛んでいきたいし、だって上の空なのは、正座した膝の浮き具合のそわそわ感で、それ丸わかりだから。

僕は人の心がわからなさ過ぎて、トンチンカンなことしまくりだけど、ここ一番のときにはわからくてもいいことだけはわかってしまって、だからそのときもわかったのは、「いま彼女、お腹空いてるな」ということだった。
クリネックスティシューの箱も半分を使うくらい泣きまくりだけど、僕は洟をかみながら「お腹減った?」と尋ねたら、コクリと彼女が頷いた。やっぱり。
手元にあるのはピザーラのチラシくらいしかなくて、でもピザって気分でもないよなと思ったので、下の方を見たらカルボナーラがあったから。僕は食べたくないけれど、受話器を取り上げ「カルボナーラふたつください」と注文し、30分も経たぬうちにピザーラ到着。
そんでふたりしてちゅるちゅる食べて、また別れ話再開。別れるって決まっているのに再開っておかしい。

そんなこんなで「とにかくあなたの幸せを祈っているから。お元気で」と言ったならば、彼女は伸びをして「明日から新しい朝を迎えることができます」と言ったので、僕は閉めたドアの向こうで爆笑かつ号泣しつつ、なんで最後にこんなにおもしろいこと言うんやろと思った。
話の中で、たぶん3ヶ月の間に人っぽくない感じの僕の振る舞いがこの先の付き合いを躊躇わせた気配もうかがえたけれど、自分のバグさ加減がなんだかわからない人間にとっては、すごくつらいことだ。

もはや別れたことが悲しいというよりも、この先、人付き合いができるのかしら?ということがあまりにも悲しいので、それから数日して敬愛する先輩に話を聞いてもらうことにした。
先輩は「で、何があったの?」とタバコに火をつけつつ尋ねて、それで僕が「実は会社の上司と」と言いかけたところで、「そりゃ上司と付き合うほうが楽しいわよ。特に20代後半の女の子にとってはね」と述べた。

よゐこの濱口優も昔、別れ際に言われたそうだ。「女って上目指したいやん?」と。つまり、できる人と付き合うことでパワーの感覚を得たいのだというわけだ。それはもうそういう季節だから仕方のないことで、現にウキウキ気分で彼女は出帆したのだし、彼女自身は順風満帆の航海に思っているかもしれないけれど、途中で座礁するかもしれない。
でも、それはあなたが心配することではないし、だからいまのあなたにできるのは泣くことだけなの。と、タバコ一本を吸う間に先輩は言い、僕はすっかり落ち着いてしまった。

別に心の話はしていないけれど、話を聞いているうちに、もう心を付きあわせて神経衰弱みたいに正解を求めるのではなく、人間以外にも生命はたくさんあるのだから、人間だけに焦点を合わさずに生きて行けば、そんなに苦しむこともないのかもしれないと思うようになった。

それは孤独であるかもしれない。けれど、なんだか孤独であることの静けさを取り戻した感覚だった。
そういえば、僕の好きな「ワンダーランド駅で」という映画にもそんな台詞があって、ラストは心地よいボサノバで閉めていた。
そう、孤独であることの静けさはあんがい悪くない。