雀鬼

自叙帖 100%コークス

前回は広島と長崎で二回被爆された山口彊さんについて書いたけれど、山口さんのような体験をされた人の証言をまとめる機会に巡り合わせるのは稀有なことなのかもしれない。

というのも、ゴーストライティングの仕事で僕が同業者からよく聞くのは、アイドルだとか政治家だとかの代打で、その場合どうでもいいことを大したことのように書けたら割りと仕事の内容としては上々で、たいがいは“どうでもいいことをどうでもいいよう”にしか書けない。

別にそれは事務所の方針というわけでもなさそうで、どうも悲しいことを悲しいという体験としてしか当人の中で刻めていなかったりするからだ。
それは裏表がないというふうにも言えるけれど、水面を跳ねる光のきらめきに気をとられて、池の深さや水の清冽さに思いが至らないとでもいうような、体験を捉える感覚が平面的だからだろう。

食べ物は味わうもの。絵画は目で見るもの。音楽は耳で聴くものだ、となぜか人は思い込んでいて、五感のそれぞれを特定の領域に合わせて使おうとする傾向がある。

でも、本当にそうなのか?と言ったら全然違って、普段の暮らしの中でそういうふうに感覚を切り分けて使っている人なんていない。
絵を見ているときに目で触りもするし、音楽を聴いているときは足で聴きもする。じゃないと爪先でトントンとリズムをとったりしない。

人の話を聞くときに相手の言葉に耳を傾けることだけを人はしているわけではなく、言葉を視てもいるし、その目で感じた質感から想像や類推をしている。
感じた手触りから、それに応じて自分の感じを形作っていくと、それが言葉にまとまって意見だとか考えだとか言われたりするものになる。

自分にとっても自分の感覚の出処はよくわからなくて、だから言葉にして返すのがひどく面倒になることもある。それくらい形状不確かなものなのに、決まりきった形に収まった紋切型の言葉の羅列を会話だとか感覚的な話だと思っている人に会うと、ひどく退屈になる。

けれども退屈というふうに世の中を舐めていたらとんでもない目に合うわけで、そういうことを教えてくれたのが、雀鬼こと桜井章一さんだった。

桜井章一さんは「代打ち」といって、要人の代わりに麻雀を打つといった、裏の世界にいた人で20年間無敗だったという。
桜井さんの本がここ5年くらい立て続けに出版されているのだが、10年前なら確実にアウトサイドの人物であったが、裏の人の言行がビジネスマンに読まれているのだからなんだか隔世の感がある。それだけに表の危機的状況を物語っているのかもしれない。

ここで言う「裏」というのは、「代打ち」のような一晩で億単位の金が動いたというアンダーグラウンドの勝負事を指しているのではない。

たとえて言えば、野口整体の創始者である野口晴哉が弟子とともに催眠の研究をしてた折り、弟子たちが「催眠術」に熱心に取り組む様子を見て、不思議に思い、「私が興味をもっているのは、人を覚醒させる方法だ。互いが互いに催眠をかけあっているのだから、なぜ催眠を学ぶ必要があるのか?」といったようなことだ。
つまり、裏とは目覚めているつもりがいっそう深い眠りについていることへの警鐘を鳴らす存在ということだ。

子育てに関する本をまとめる趣旨で桜井さんに取材したのだけど、言外に射かけてくる感覚の矢、それはうっかりプレッシャーとか威圧と受け取られかれないものだけど、そういう圧ではなく、ちょっとイタズラ気分で放つある感覚のリズムみたいなものにさらされて、3時間ばかりの取材で僕は本当に疲労困憊した。初めて取材した日は、帰りの電車の中で身体が震えるくらいの発熱をした。
なんというか僕がアテにしている感覚それ自体の根拠がひどく怪しくなってくるような感覚に襲われる。感覚のレイヤードど説明しても何のことかさっぱりかもしれないけれど。

インタビューの中でも印象的だったのは、「人に何かを教えることはありえない」ということで、相手に教わることが結果として何かを伝えることになるという話だった。
よちよち歩きを始めたお孫さんが高い珈琲カップを割った。周りの大人は「ダメでしょう。高いカップを割って」と叱ったところ、桜井さんは「お見事」と思わず拍手したそうだ。

「高いカップを割ったからいけないと叱る。だったら100円ショップのカップなら割ってもいいのかい? 高い安いは大人の決めごと、価値観でしかない。子どもは大人が何に捕われているか教えてくれた。だからありがたいんだ」

僕たちが当たり前に受け取っている善悪の判断基準は、社会の要請でつくられたものに過ぎない。けれど、生命や存在という原点から見たとき、それらの善悪は本当に僕らの生命を活き活きとさせる秩序と言えるのだろうか。むしろ、たかが頭で考えられた範囲の価値観で囲まれた世界に、努力して身を切り詰めることを正当化しているだけのことではないか。

努力すること、そして勝つことが正しいとされる。桜井さんは見よう見まねで麻雀を覚え、初めて打ったその日から負けたことがない。努力をしたことがない。
誰に習ったわけでもなく始めた麻雀で打ち始めたその日から勝ち続けというのも凄まじいけれど、勝つことが当たり前だから「勝つ」ことのおもしろみもわからず、だから他人が勝つことに拘る意味がわからないという。

だからこういう。
「勝つことは正しいことでもなんでもないし、楽しくもなんともない。勝つことは奪うことでもある。だから勝つことは怖いことだ」

取材の終わりになって、僕は「桜井会長にとって二番目に大切なものは何ですか?」と問うたら間髪を入れず「俺だ」といった。

たぶん、それは美学として言っているんじゃなく、というのも「嘘を吐いたって自分にはバレるんだから、嘘を吐いたってしょうがない」を言葉じゃなく体現してるからで、だから自分の固有さを語るにしても二の次の自分が語っていて、それがこの世であまり酔わずに済む眼差しなのかもしれない。僕らが現し世と思っている表の世界は、酔いしれた者の目で見ているだけの乱痴気騒ぎの世界かもしれない。