2年を経ての雑感

自叙帖 100%コークス

振り返れば、このブログも2年が経ったようで、ようよう実年齢に近いところまで漕ぎ着けた。

迷走だけが頼りの、ピンボールよろしくあちらにぶつかり、こちらで小突かれしてきたわけだが、そういうことを繰り返したおかげで、次第次第に分別もついて年をとり、一端のことを言えるようになった…んなわけもなく、どちらかと言えば「収まりかえったことなんか言ってたまるか」という意気は盛んになっている。
たぶん死ぬまで書生だよ。

時代や文化、家族だとかは生まれ落ちた瞬間、選択の余地のないところだが、だからといってそれらの用意した価値観や考えと辻褄が見事にあって、「生まれてくる時代が悪かったから」「それが常識だ」「親のせいでこうなった」といった言い訳と取引することを人生だなどと言いたくはない。

本当に退っ引きならない暮らしをしている人がいるのも知っている。いつ自分がそうなるかもわからない。けれども、だからこそ辻褄といった整合性があるというのは、ひとつの暴力で、そこには必ず「お話に仕立てている」という嘘があると思っている。

自分の人生を成功か不首尾かで捉えるのも安直に過ぎるが、その原因を社会や家族や人間関係に求め、「だから良かった」「だから悪かった」というとき、善悪の筋立てに回収されない糊代の部分やほつれが排除されている。そんな彩りを封殺するようなことを、僕は自らの手で行いたくない。「そんなの僕がかわいそうじゃん!」って思ってしまう。

なんで自分で自分を殴りつけたがるのか。どうしてそんな凝ったことをして他人に心配されたがるのか。何をしようとも自らの存在を認められたいのなら、信頼には条件がないということを知る必要がある。

たったひとつ信頼に条件があるとするなら、存在していることそれ自体のはずだ。善きこと悪しきことを行うから信頼が得られるという交換条件は一切必要ない。

善きことを行うから信頼される。悪しきことを行っても赦してくれるから信頼を得られるのだとしたら、それは満たされなかった記憶に基づく餓えの表現であって信頼ではない。
自分の存在に条件を設定しているのであれば、自分が紡ぐ関係性には当然交換条件が付されている。そこから抜け出たいのなら、自分が設定した条件を捨てるほかない。

だからといって、何事も意思が大事で、意思さえあればすべては変えられるといった安い自己啓発みたいなことを言いたいのでもない。意思も大事だろうけれどね。でも「それだけ」にしてしまった途端、自動販売機にコインを入れてコーラが落ちてくるみたいな図式と変わらない。

言い訳が必要なところに美は存在しない。僕は美意識だけが生の指針ではないかと思っている。

美がもたらすのはなんだろう。希望だろうか。
未来に希望を抱いたことがあるだろうかと思うと、僕はあんまり思い当たらない。夢も特段描いたこともない。でも、落魄した暮らしの中で、やさぐれ切って他人を社会を徹底して呪ったこともない。

退廃や無頼に浸りきることに馴染めない。そんな湿度の高いことはやっていられない。自分の傷を舐めることの仄暗い喜びもわかるし、やるけれど、いつまでもそんなことだけやれないのは根本的に楽しくないからだ。
楽であることに理由はいらない。楽なことに根拠はないけれど、なんだか楽しい。
楽なときは、たぶん希望を探さなくても求めなくてもいい。僕自身という存在自体が希望になっているから。