2010年12月27日 vol.6

自叙帖 100%コークス

 思えば僕らが生きている社会は「しなければならない」「こうでなければいけない」といった概念でガチガチに固められている。
 社会に配置されたシステムとは畢竟、概念を生きるということで、努力しなければいけない。ちゃんと言うことを聞かないといけない。正しいことを言わないといけない。言われた通りのことをきちんと理解し、できるようにならないといけない。
 そうした徳目を身につけた挙句、ついには働いてお金を稼ぐという生き方に自分の寸法を合わせることを「生きる」ことだと、いつしか思うようになった。概念が増えた。そして身動きがとれなくなった。
 
 何かのための何か。身につけるべき何かはたくさんある。ただひとつ軽やかに生きることができなくなった。
 まったく晴れ渡らない景色が僕らの前に広がっている。僕らは言い訳をたくさん覚えて、行儀よくはなったが、肝心要の、ただ自分の生命を生きることを放棄してしまった。

 何かを得ること。何かを覚えること、できるようになること。努力して獲得すること以外に僕らは人生は始まらないと思い込むようになった。そうじゃないと落伍してしまうではないか!

 けれども本当かな?と、ときおり僕らの中に住む誰かがそう囁く。
  “犬が自由に走れるなら、どうして俺たちにそれができない?”

 北方を目指す渡り鳥は努めて飛び立つのか。花は努力して越冬するのか。太陽は努力して昇るのか。
そして僕らは努力して息をしたり、心臓を動かしたりしているのか。

 当たり前の事実から考えてみることにした。すると努力なしに生きることは至極当然ではないかと思えてきた。
「そんなことはありえない」という自分の抱いた思いを否定しにかかる常識は僕の中にも濃厚にあるのだが、では試したことがあるのか?と問うてみれば、ないと即答できるくらい確かなことで、いい年をして言い訳を考える自分というのも意気地がない。

 ほとんどの場合、努力は他人に評価され、承認されるべく行うものに注がれている。「してはいけません」だとか「はやくしなさい」「そんなこともできないの」だとか、子供の頃からあらゆる機会を通じて小突かれ、どやされ、呆れられた結果、できあがったのは自分で自分を受容できないよくわからないシステムだった。
 そういった自分が自分を否定するシステムをもった同士がコミュニケーションを取ろうとすれば、それは承認を求めての、飢餓感の表現でしかなく、そうすると普段僕らは何をやり取りしているのだろうという気になってきた。

 他人からの承認と他人からの評価を受けるために働き、生きることが暮らしのすべてだとしたら、そんなものは生きると言えるのだろうか。

 他人に認められるべく努力するのではなく、自分に備わったなにがしかの能力を発揮すれば、誰かがそれを必要としてくれる。それは承認欲求に基づかない、才能の回遊で、そうしてこの世を泳いで渡れるかもしれない。

 僕はさしあたって匿名の仕事を断ることにした。つまり、それをするのは僕以外でも構わないような仕事や「当座のお金が必要だから」とか「あいつは使い勝手がいい」とかそういう考えで仕事をせず、ちゃんと自分のストロークで泳ごうと決めた。