博多の思い出3

自叙帖 100%コークス

博多とのつながりはヤクザが取り結んだわけで、その後10年あまり経って原発が爆発した。あの日を境に、日本全体がタルコフスキーの「ストーカー」の“ゾーン”みたいになった。そりゃ渋谷ヒカリエに行けばキラキラしているし、伊勢丹メンズ館に行けば自意識過剰の店員とモードの犠牲者みたいな客がたくさんいて、「本日も特に問題なし」な現実は引き続き存在している。

でも、どこかでこの現実に破れ目ができたことを知っていて、それは僕だけではないはず。
不確定なことが多すぎたから「三十六計逃げるに如かず」と西に拠点を設けることにした。

「大丈夫だ、安全だ」という冷静な声があるのはもちろん知っているし、「いいや、そんなことはない」とそれに対する否定的な根拠と論がある。考えることが多すぎてやがて考える事自体がどうでもよくなるような時期もあった。

ただ忘れていなかったのは、「なんの問題もない。状況はコントロールされている」と「問題だ!」という綱引きを傍で眺め、どちらかに感情的に入れ込んで、肩入れした分だけ理屈で自分の信念を逞しくしていく、そういうプロレスには参加すまいと思ったことだ。

「これが現実だ」と互いに思っている冗長な現実は現実そのものではなく、あくまで「現実めいた現実」だ。よくできた紛い物だからこそ、ありありとしたリアリティを感じる。「私にとって」のリアリティに他ならず、それは現実とは本当は関係がない。

東京から離れて暮らす先は、生まれた神戸や大阪でもよかったわけだけど、神戸も大阪も20世紀をまだやっている感じだ。特に神戸にタワーマンションがぼこぼこと建っている様は無残だった。大震災が起きても大丈夫な建築物を、と意気込んだのだろうけれど、喉元過ぎれば熱さを忘れるというやつにしか見えない。それに建築家やデベロッパーはわかっているはずだ。将来的にタワーマンションが不良債権化することを。加えて、野村総合研究所によれば、2003年のペースで新築(約120万戸)を造り続けた場合、30年後の2040年には空き家率が43%にのぼるという。

目先のことしか考えられなくてもやって来れた20世紀型のモデルからいまだに離れられない神戸にさほどの未練はない。いまだに好きな喫茶店、中華料理店がある。そこを訪ねるだけで、いや僕にとっての神戸はそういう場所をつなげた星座の中にしかもうない。大阪はといえば、あのような知事がいるような街なので論外だった。

2011年から始めた東京と博多の暮らしは2013年秋から博多ひとつになった。LCCだと往復で1万円もかからない日もあるし、飛行機で2時間もかからない。取材を終えて博多で書いて、ネットで原稿を送ればいい。距離をパスする技術を特別の能力がなくても手に入れられる時代なのでありがたい。

ありがたく思いながらもこう思う。このパスは「これが現実だ」と互いに思っている冗長な現実に過ぎず、止まったものに対するパスでしかない。決して、いまは視界に入らない誰もいないスペースに向けたパスではない。博多は便利で規模の小さい東京で、ここに暮らすのは(気候をのぞいて)快適だが、文脈は変わらない。

来年はスルーパスを通したい。蹴り出すのは僕で、パスを通す相手は自分なのだが。幻想を共有してお金を稼ぐことを人生だと倒錯してしまった現実めいた現実から完全に脱落するのではなく、半歩外から観察する場に立ちたい。

ほどよく適度に開けた街から隔絶というほどは離れていないところに里山だとか湧水なんかがあって、そこで芋とか玉ねぎなどを育てながら、「土に触るって楽しいねぇ」などと暢気に言い、ペレットでストーブを焚いたりとか、「生活は遊びじゃねーんだぞ!」と怒られながら「でもやるもんね」と食う寝る遊ぶをしたい。

だから博多を離れるかもしれない。もう少し南かあるいは瀬戸内かはたまた長野あたりか。うん、ようするにどこだっていいわけで、自分の暮らしを立ち上げたい。食料不足だとか水不足だとか、生きているあいだに「それみたことか」と自分の正しさを証明したいわけじゃない。

ただの暮らしを行うことで、現実の何たるかを知りたい。自分の身幅の暮らしを知りたい。自分にとって必要なお金、食料、エネルギーを知るという、ひどく当たり前のことをこの歳になるまでやって来なかったから、今から始めることにする。