偏愛

自叙帖 100%コークス

1963年頃、父は勤めていた会社を辞めた。国籍の違いを理由とした待遇に腹を据えかねてのことで、退職後、ただちに起業した。
社会の既存の経路に従って進む査証をもたない在日コリアンの同時代人は、金融や土建、飲食、芸能などにおいて生きる道を模索した。

スサノオのごとき性分の父もまた上記のいずれかを選んでもおかしくなかったのだが、前職の経験を生かし、洋菓子の包装紙などを卸す会社を起こした。

岩肌に目鼻を穿ったような風貌の男がピンクのリボンやかわいい包装紙を扱っていたのだ。神戸にはパン屋や洋菓子店が多かったせいもあったとはいえ、不釣り合いなことこの上ない。
ともあれ「大きいことといちばん」が好きな父らしく、社名を「ダイイチ」とつけて、新たな暮らしを始めた。

1966年、ビートルズがやって来た。
敗戦後に急場にしつらえられた社会の形は、いま一度再編成される気運もあったようだが、父にとっては、世相はともかく、活況を続ける日本経済の尾をとらまえることに必死であった。そんな時節に兄は生まれた。

兄は3、4歳にもなるとひとりでバスや電車に乗っていたそうだ。しゃべり出すのも歩き出すのも早く、そこに利発さを認めた両親は行く末に期待をもった。

小学校1年生のテストでは、「白の反対は?」「右の反対は?」などといった設問の並びに「白ではない」「右ではない」といった答えを書き、0点をとった。
そういったエピソードを両親は後年、笑って明かした。我が子の発想を「ユニークさ」として流してしまえる余裕がその頃にはまだあった。

いまとなっては、個性というものがこねくり回され過ぎて、協調性と独自性の二路線を同時に踏まえるといった、もはや誰が体現しているかわからない代物として尊重、あるいは敬遠されているように思うが、当時、個性という語は、いまほど人口に膾炙してはいなかった。

個性の伸長があるとすれば、いい学校に行き、勉強ができることで発現強化されるものであり、それによって立身出世はかなう。少なくとも父はそう信じていたようだ。

赤貧の中に暮らし、社会に参与できなかったという思いを抱く父は、不遇をかこつ身からの回生策として、僕らにふたつのことを折に触れて言い聞かせた。

「知識と教養を備え日本社会から尊敬される人間になること」
「圧倒的な力をもって自己の身幅を確保せよ」

ひとつめは社会の階梯に従った生き方を、ふたつめは階梯から身を遠ざけ、独自の道を行くことを意味した。

兄の聡さは、後者において発揮されるべきものだったと思う。父もまたその資質がありあまるほどにありながら、兄の本来持っていた個性を上書きすることに努めた。

頭の回転の早さは、物事の秩序だった手順をまだるっこしく感じるだろう。だから整理整頓が苦手にもなろうし、それに苦を感じることもあるだろう。

あれこれと発想が浮かぶと、腰がむずむずする。動きたくなる。ひとつところにいてじっとすることに当然耐えられない。ときに時間を忘れて外を駆けまわる。親や教師はそれを不真面目さ、落ち着きのなさと受け取った。

おそらく、どれもこれも身体が然らしめる現象なのだが、秩序に馴染むことを教育、啓蒙とする見方にすれば、兄のような振る舞いは学習能力に欠けた、将来を憂うべき子どもだった。
また、たかだか整理整頓が苦手だということが徳目に欠けたことであり、人生上の大問題のように取り上げられ、叱責された。

その感情の発露は、神話的であり、人間世界の秩序をはみ出すようなあり方をしていながらも、父は秩序に寄って行く生活を人としての成長のあり方と考えていたのだ。兄は父の錯覚には乗れなかった。

社会に用意されたスケールに従ってのみ我が子を測定するようになったとき、兄は勉強ができない上に社会生活をまともに送れない。そういうように次第に判じられていった。

とりわけ母にその傾向が強かった。高度成長時代の動向に合わせ、貧苦に喘ぐ暮らしから市民的で快適な生活への登壇を人生上の喜びと捉えるところがある人だった。

母にしてみれば、自分の思い描く生活に配置できない兄にうまく愛情を注げなくなったものか。兄に比べてものわかりのいい、従順な僕を偏愛した。親戚や友人のあいだで交わされる子どもに関する話題は、突き詰めれば「弟に比べて兄は…」というものだった。

先頃のブログでも書いたように、ときに包丁の峰打ちなどの過剰な表現を伴う母の愛情は、完全に兄をスポイルし、損ない続けるものだった。

1988年2月、僕が生まれて間もなく膠原病になり、17年間に渡る闘病生活を続けていた母が亡くなった。

集中治療室に呼び出された父と兄、僕は医師から「たいへん残念ですが、あと30分で心臓が停止します」と告げられた。

直に死ぬと明かされ、それが間もなく到来すると知らされたものの、眼前にこうして寝ている人が死ぬということがまったく想像できず、もはや何が悲しいのかわからないが、とにかく滂沱と涙が流れた。嗚咽した。

「親戚に報せなきゃな。ちょっと家に戻るわ」

兄は心ここにあらずという面持ちを浮かべ、白茶けた声でそう言うと踵を返し、逃げるように去った。そのときの彼の声の表情をいまだに忘れることができない。

兄は母の最期を看取ることを避けた。それは愛憎であるとか、わだかまりであるとか、わかりやすい言葉でにわかに片付けられないものだ。ふたりの間に横たわる感情の澱がここに来て、そのような形をとらせてしまった。

今生での別れに悔いはなかったか。
兄に対しそう思う時、悔恨があるとすれば、そのような思いをさせてしまった片棒を自分も担いでいることに気づく。

兄とはもう15年ほど会っていない。母が亡くなってから四半世紀経つ。
あれから僕らは母の死について一語も交わしていない。