目覚めに向けた走りについて

雑報 星の航海術

最近、ランニングを始めた。
といっても、ほんの2日前のことなので本当に直近の話だから、この先続くかどうかもわからないのだけど。

きっかけはいま読んでいる『BORN TO RUN』という本に影響されてのことだ。なんだか無性に走りたくなった。しかも、文中で登場したビブラムという5本指に別れた靴も買ってしまった。感化されやすいんだ。

世界で最も偉大な長距離ランナーであるメキシコのタラウマラ族について書かれた本書は、アメリカでベストセラーになったというのだが、そのわりにたいへん読みにくい。
著者がとにかくはしゃぎすぎなのだ。

しかし、重要なことがいくつか書かれていた。
そのうちのひとつに、アメリカのスポーツ医学の中には、人間の身体は走ることに向いておらず、身体に悪いという見解もあるという。そのためだろうか。踵を地面にうちつける際の衝撃に耐えるため、メーカーは一時期、エアクッションなどさまざまに工夫された高機能シュースの開発に余念がなかった。

ランニングで膝、アキレス腱、踵を壊す人が多い→もともと走ることに人体は向いていない。
結果から原因を求めているように見えて、その実、ある結果から別の結果を求めることにしかなってない。こういうものを検証といっていいかどうかわからない。

ともあれランニングによって怪我を抱えていた著者は、タラウマラ族の噂を聞きつけ驚愕する。
なにせ3日間400キロ以上を休まず走り続けるようなランナーもいるというのだから。しかもナイキの最新のシューズではなく、ごく薄いサンダルを履いてだ。

江戸時代の飛脚が一日160〜200キロを走ったというから、タラウマラ族の走行距離もたぶん事実なんだろうと思う。

現代の一流アスリートでさえ不可能な距離を走破するとは、にわかには信じられない。白髪三千丈の類いの話だろうという人もいるだろう。

でも、いまの自分程度のレベルから推し量って、人間の可能性を見積もるのは不遜というものだ。

たとえば、甲野善紀先生が以前、サイトでも言及していた明治時代の剣客、中井亀次郎だ。

中井は空の醤油樽を背負って、山に登り、急勾配の崖の斜面にそれを転げ落とすと同時に醤油樽を追い、かつそれを手にした棒で叩きながら下まで駆け下りたという。ほんの100年くらい前にそういう人がいた。

ちなみに幕末に来日したペリーの日記を読むと、当時の日本人の身のこなしを「軽業師のようだ」と記述している。身体を徹底して使う文化の中では当たり前のことが、いまでは不思議に思えることがたくさんある。

自転車に乗った経験も乗っている人を実際に見たこともなければ、とうてい漕ぎながら、倒れずに、それでいて左右に曲がったりすることなど想像もできないかもしれない。たぶん僕らは先人の身体のレベルを自転車に乗れない感覚でぼけっと見ている。

僕はずっと身体というか心身というか、この身のあり方が不思議でたまらなかった。

その不思議さは、総論すれば「生きるとはどういうことか?」という問いに収斂するのだけど、あまりにその問いの間口がデカ過ぎて、そいつにどうアプローチしていいかわからなかった。

宗教か哲学か進む道を迷ったが、そのふたつをいわば体感で捉えられるものが武術だと直感した。

がしかし、身の回りの武術はことごとくスポーツ化したもので、回数をこなすだけのものでしかなく、意味のない気合いとともに行われる練習がどうしたところで古の侍の身のこなしに近づけるものではないと早々に気づいた。

それに「生きるとはどういうことか?」の疑問に応じる武道性を標榜する精神とやらも、「我慢」「克己」という問いを封じ、体感を鈍磨させるものでしかなかった。

悶々と悩む中、ムエタイに出会った。ムエタイのいっさい能書きをいわないにもかかわらず、すばらしく強いところに打たれ、武術を諦めてキックボクシングを始めた。10年ほどキックを続けたが、やはり武術に対する思いは熾火のように心中にあり続けた。

そういうときに池袋の西武コミュニティカレッジで出会ったのが先述の甲野先生で、「なるほど。古の技というものはこういうものであったかもしれないな」という経験をし、たいへん感激した。その日を限りにキックボクシングをすっぱり止めた。

人との出会いが人生を開くというが、以来、心身問題に取り組んできた先人の知見に触れることができた。
野口整体の野口晴哉の著作を読んだり、整体にかかったり、剣術を学んだり、心身との深い結びつきで人の存在について考察している精神科医の名越康文さんに出会ったり、著作まで出すこととなった中国武術の韓氏意拳と邂逅することができた。

だからといって僕はストイックなわけではなく、オーガニックや甲田メソッド、禁糖を試みたり、最近ではロルフィングを受けたり、豆乳ヨーグルトをつくってみたりと、わりと天然生活っぽいこともしている。流行に弱い側面は充分にある。

いろんなことを経験してきて思うのは、いまの暮らしの中では、感じる力が不当なまでに抑圧されていることで、知識と情報をもとにした思考の総和が世界に等しいと思われていることだ。

世界は常に既定の外にあり、刻々と移ろうただいま現在の姿は感じる中でしか出会うことができない。
その当たり前の事実を見失うことをもって成熟と呼んでいたりする。それは眠りに就くこととどう違うのだろう。

僕はできれば目覚めていたい。
目覚めているつもりで新たな深い眠りにうっかり就いている人を見ると、自分もそうかもしれないと思う。

背筋を正すことでしか、そう、まさに身体の規矩を感じる中でしか、自分のありようなどわかりはしない。
そのことを忘れずにいたい。