無陰翳礼賛

自叙帖 100%コークス

故郷の神戸の特徴は、山と海の隔たりが場所によっては3キロほどと、ひどく狭いところにある。

沿岸から東西に走る六甲山系を見ると、彼方に屏風をしつらえたような案配で、紅葉の頃など、芦屋の浜あたりから振り上げれば、紅蓮と朽葉、緑が眼を占め、「なるほど錦繍とはこういうものか」と感じること請け合い。

この構図を古代の人が「ムコ」と読んだのかもしれない。一説によれば、ムコ(向こう)が武庫に転訛し、近世に六甲という字が付されたという。

神戸と言えば観光地として有名だが、ガイドブックで紹介されるのは、勝海舟による海軍操練所設立以後の、近代化された港町としての足跡。あるいは「株式会社神戸市」と呼ばれた時代の産物が大半を占めている。

投網をうって網にかかった獲物を情報とするなら、そんなものは現地に足を運ばずともそこら中に溢れている。
僕らは網目をすり抜ける何かに直に触れたくて旅をする。

街中を目的なく歩く中で現れた路地や坂、寺社仏閣の配置のされ方、流域ごとに変わる地名。そういったものに目が留ったとき、足下の地層を割って土地の記憶がむくりと身を起こす気配を感じるはずだ。
だから、神戸を訪れる人がいれば、土地の孕む蠢動を念頭にそこかしこを歩いて欲しいものだ。お勧めの教本は、たとえば万葉集だ。

大伴旅人は歌う。
妹と来し 敏馬の崎を還るさに 独し見れば 涙ぐましも

柿本人麻呂はこう詠む。
珠藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の先に 舟近づきぬ

敏馬とは、現在の芦屋の浜近くを指したというが、芦屋とはそもそも葦の生える湿地帯をいうのだから、現在の行政上の地図にぴったりと沿うわけではないから、おおまかに神戸あたりの海浜と思えばいい。

いまでは自分の住む街や後背地について、スターバックスやショッピングモールからの距離で考えてしまいがちだけど、そんな産業施設の配布された座標系の上を生きているわけではない。

想像力による解像度を上げていけば、—そう、イームズの「power of ten」みたいに!—行政区分やビジネスによってつくられた平面的な情報とは異なる深度ある情景に出会えるはずだ。

子どもの時分、車がびゅんびゅん通る国道沿いに立てられた「有馬道」の在り処を示す石碑に痺れまくっていた。
それを見るだけでご飯がおかわりできるくらいの心持ちだった。

石碑は古代から都人に知られた有馬に向かう道を記念するものだったが、僕にとっては、失われたインカ道を炙り出すようなサインに見えた。
地中に刺さった石碑の根は旅人や人麻呂にいまなおつながっているように思えたし、いまだにそう思えてしまって仕方ない。

さて今回は、生まれた街について書くはずだったたのだが、ずいぶん前置きが長くなってしまった。
改めて言えば、僕は神戸の魚崎という街に生まれた。5分ほど歩いた川沿いに、谷崎潤一郎の倚松庵があった。

13歳で引っ越した先は岡本といい、新築した家は戦中、高射砲の築かれていた急勾配の山頂近くに位置していたが、奇しくも麓には谷崎の鎖瀾閣が移転されようとしていた。

ここでも谷崎との巡り合わせがあったのだが、あいにく彼の小説とは無縁であり、その頃しきりに読んでいたのは平井和正か大藪春彦だった。
長じてからも手に取ったのは『台所太平記』くらいのもので、それほど彼に思い入れがなかったのだが、つい先頃『細雪』を読んでみたところ、滅法おもしろかった。

以前、知人に自分の育った環境についてしゃべったら、「それは『細雪』のような環境ね」と言われたことがあって、今回読んでみて「なるほど」と、その言い様が腑に落ちた。

『細雪』には、「シュトルツというドイツ人の一家」やロシア人が登場するが、新居の隣には、クライバウムさんというドイツ人のほか、名前を失念してしまったがラジャという小さな娘さんのいるインド人、あとはベルギー領事やスイス人、アメリカ人が住んでいた。

住宅街というよりは、曲輪のような一郭に10数軒の家が並ぶだけの静かなところなのだが、ときおり「おまえ、いまのジャンケン、後出しやぞ!ずるいわ」と遊び興じる子どもの声が聞こえ、そういう子が金髪碧眼だったりしたので、引っ越し当初は驚いたが直に慣れてしまった。(このあたりは『アドルフに告ぐ』っぽい)

後に高校に入ると、区域に中華街の「南京町」があったことから、クラスに必ずひとりは中華学校出身の華僑がおり、教師もドイツ系アメリカ人だとかフィリピン系イタリア人だとか多種多様な民族、国籍で構成されていた。

比べて在日コリアンとの付き合いはといえば、通学時にチマチョゴリを着た学生とときおりすれ違うくらいのもので、まったく「同胞」の友達はいなかった。

父はかつて朝鮮総連の専従活動家であったが、組織の腐敗と「民主主義人民共和国」の表看板とは相容れない体制にほとほと嫌気がさし、組織を離れた。
そういう経緯があるからなのか、在日コリアンのコミュニティから距離を置き、交流をもたなかった。

ただ引っ越した先にアライさんという在日コリアンの実業家が屋敷を構えていて、特に面識はなかったが、彼が唯一身近にいたコリアンだった。

話はそれるが先日、楳図かずお先生のお宅を勝手に見学させてもらったが、マンガを立体にしたような、ファンタジックなお家だった。


アライさんのそれもマンガから抜け出たような“白亜の豪邸”で、前を通るたびに、「きっとこういう家に住みたくてがんばってきたんだろうな」と思ったものだ。

鉄格子の大きな門扉の脇にはアヌビスのようであり、ケルベロスにも見える像が対で置かれ、さらにクドさを怖れもせず三越に置いてあるような、どでかいライオン像がでんと据えられ、門から奥をうかがうと、パティオに向かう廊下にエミール・ガレめいた照明が取り付けられ、さらにはサモトラケのニケ!やアングルの「泉」を立体にしたような彫像が奥に鎮座している。

模造だろうがなんだろうが構いはしない。その痛快なまでの成金趣味にむしろ爽やかさを覚えた。

噂では、アライさんに飛び込みセールスや新興宗教の勧誘を試みた人は、前口上を遮られるや、「まぁ難しい話はええから、うちの庭を見ていきなさい」と自慢の空中庭園を見させられた後、「どや? ええやろ? わかったらそれでええ」と、営業トークはおろか折伏、福音を説く隙も与えられず、ことごとく帰されたという。

父はアライさんのゴージャスてんこもりの趣味を低くみていたが、僕は自宅にあるイタリア製ベンチ式のシューズクローゼットやフランスから取り寄せたというシャンデリアやアール・ヌーヴォー調のソファが、和洋折衷の間取りに配置されているところに、死にたくなるほどの野暮さを感じていたので、(和風モダンとか居酒屋のメニューみたいな趣味はホントに勘弁して欲しい)アライさんのような臆面もなさ、野蛮さに好感をもった。

アライさんは、きっと谷崎の『陰翳礼賛』の感性など解しないかもしれない。手に入ったものを子どものように自慢したがる無邪気さを微笑ましく思う。

しかし、その根底には素手で戦ってきた人の凄みが湛えられていたことを後年になって知った。

1995年の阪神大震災から数日後、夜中にカラスが鳴くなど不気味な夜が続き、山が崩れるかもしれないと住民が不安になっていた頃、アライさんはどういうルートを辿ったわからないけれど、大きなブルドーザーを手配した。

万が一の事態が起きても、物理的な問題は物理的に解決する。そこに僕は彼の影を宿さない精神の清潔さを見たのだった。