彼女について私が知っている二、三の事柄

自叙帖 100%コークス

実家の隣には、ドイツ人が住んでいたと前回書いたが、近所付き合いのあまりない我が家には珍しく交流があった。
彼女の名はユターリヒャといい、交通心理学のプロフェッサーだった。

巷間「日本語は物事を曖昧にする言語」と言われる。
かりに日本語の特徴にそのような傾向があったとしても、言語は器である以上、使い方次第なのだなと、僕は彼女と接する中で大いに気づかされた。

ユターリヒャは曖昧さを許さなかった。厳密な手続きにしたがって言葉を話すことをたいへん貴んでいた。

たとえば、何か話をしていて、結語に「まあ、そんな感じがしたんです」などと言おうものなら、

「“そんな感じ”とは、どういう感じなのか?」
「なぜあなたはそう思ったのだ?」

と問いを重ねて来る。

「まあ、そんな感じがしたんです」
「なるほどね。ああ、なんとなく“その感じ”わかりますよ」

などというヌルい会話は許されなかった。

彼女にとって会話とは物事の筋道を明確にすることであり、親密な間柄であっても互いの相容れなさを明瞭にすることを辞さない。

その自我の硬さ、骨太さに、幼いみぎりより硬水を飲み、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの三段跳びの鍛錬を日夜欠かさなかったものかと、ドイツで暮らしていた折りの彼女の姿を僕は夢想するのだった。

だからといって理知の輝きに彼女が全面的に覆われていたわけではなく、ときに自己を肯定せんがための、梃子でも動かぬような論旨を持ち出すこともあった。

しかしながら僕が辟易としたのは、そういうところではなく、「世界に冠たるドイツのすばらしさを述べずにはいられない」という彼女の性向だった。
彼女はドイツのリサイクル状況や工業デザインの洗練具合についてしばしば話した。

前者の環境施策については1980年代の日本とドイツのそれを比べれば、お話にならないほどの差があったし、サステナビリティに関しても、いまだ雲壌懸隔はなはだしい。

後者についてはどうか。
いまでこそオリジナルの自負もあり、中国や韓国の工業デザインを日本のそれのパクリなどと非難する向きも大いにあるが、つい先頃まで、たとえば自動車のデザインなど1950年代、60年代のヨーロッパ車そのままのものが溢れていたことからすれば(トヨタ・セリカなどアルピーヌA110まんまだ)、日独の比、月鼈雲泥の如きであった。

ともかくドイツ・アズ・ナンバーワンのユタリーヒャは、父がボルボを買ったときなど、自動車メーカーごとの事故に関するデータを披瀝しつつ、「なぜBMWを買わなかったのか?」と言い出す始末だった。

あれは1991年だったか。ベルリンでベトナム人がネオナチによる放火で殺された事件があった。
事件の数日後、彼女の家に夕食に招かれた。ドイツのすばらしさを常日頃喧伝する彼女に、「いまのドイツ人にとって、ナチの記憶は過去のものになったのではないか?」と言ったところ、彼女はナイフとフォークをテーブルに置くと、「そんなことは断じてありえない。真実を見失うわけにはいかない」と激しい口調で断固否定するのだった。

彼女の打って変わった様子に驚いた。過去に関しては「徹底的にダメなドイツ」という評価しかなかったからだ。
その激しい語気に彼女は「恥」ということについてある時期考え抜き、それ以後、何か心に期することがあったのではないか。そう感じた。

僕がナチについて意識したのは、ユタリーヒャに出会う遙か前の幼稚園の頃だ。
8つ年上の親戚がミリタリーマニアで、部屋に飾っていたSS(親衛隊)の制服や手を掲げ、足をまっすぐに伸ばして行進する兵士らの写真を見た。

子どもながらそこに禍々しさと恍惚ないまぜの、ともかく迂闊に他言してはならないような気持ちの起りを感じた。

その年の冬、母は僕にシルバーグレーのコートとショートブーツを買い与えた。すっぽりと身体を覆うコートとピカピカ光るブーツ。僕は玄関で誰にも見られないよう、あの写真で見たような動きを真似してみた。

カツカツと玄関に敷いた石を規則正しく刻む音。自らの振る舞いに総毛立った。
それは断片的であれ、ホロコーストについて話す時の大人たちの嫌悪に満ちた顔つきからなにがしかを察知していたからこその反応だろう。

小学校に入ってから、意識的にナチに関する文献を読むようになったが、ずっと避けていたのは、レニ・リーフェンシュタールの作品だった。
近年書評を書くために見ざるを得なかったのだが、幼いときの感覚があながち誤っていなかったことを確信し、それだけに「ゴールデン・ボーイ」を思い出し、怖気を震ったものだ。

東京に来てからは、ユタリーヒャと会う機会もめっきり減った。彼女について思い出すようになったのは、クラウス・コルドンのベルリン三部作、とりわけ最終作の『ベルリン1945』を読み、主人公エンネがユタリーヒャと同じく、1945年に12歳で敗戦を迎えたと知ってからだ。

『ベルリン1913』『ベルリン1933』『ベルリン1945』は、どれも大人から子どもまで読めてしまう平易な文体で綴られ、一度ページを開くと、活き活きとした描写に目が離せないほど引き込まれる。

だからといって、一気に読めてしまうようなわかりよい話ではなく、ときに息を詰めて走り抜けるように読まざるをえないところもあり、そんなときは苦しさのあまり、思わず本を置いてしまい、コーヒーを沸かしたりして、読み終えるまでに何度も気持ちを落ち着かせる必要があった。

おもしろいが悲しい。悲しいけれど悲しい気持ちにだけさせるように悲しく描いていない。

主人公、エンネは叔父であるハンスの恋人だったユダヤ人のミーツェからこう聞かされる。

「ハンスが死んだとき、あたしはとても恥ずかしかったの。(略)あたしは恥ずかしさと怒りから抵抗運動に加わったの」

悲しませようと書かれてはいない。
けれども「恥ずかしさと怒り」というくだりを読んで、どうも堪えきれなく文字が滲んでしまったのは、「恥と怒り」という身体のうちに激しい感情をこもらせてしまうほどの周りで起きている暴力の惨たらしさと、人は痛めつけられ過ぎると本当にダメになってしまい、進んで自尊心を手放し、痛めつける側にまわってしまう。そんな現実に打ちのめされたせいかもしれない。

ユタリーヒャの周囲にも痛めつけられ過ぎた人たちがいたかもしれない。あるいはザビーネ・ライヒェル『目に見えない傷痕』やヘルガ・シュナイダー『黙って行かせて』に綴られたようなことを身近に聞いたかもしれない。

現実は一筋縄ではいかないのは、過ちに塗れた現実を改変する処方箋は「勇気をもって立ち上がる」ではないところだ。 コルドンは作中人物にこう語らせる。

「暴力を終わらすには暴力がいる。必要悪だってわけだ。だけど、ルディさん、それじゃあ暴力は終わらないぜ。暴力はつづく。スターリンとともに。赤のルーケと共に。世界を幸福にする方法をちゃんと知っているのに、それを暴力で解決しようとするすべての人間と共に」

希望と共に生きなければ、到底生きては行けない局面もある。
けれども、生きのびた私の希望が誰かの生きる望みを挫きもする。 この連鎖を断ち切るのは、本当に困難なことだ。

レイシズムに満ちた言説が横行するようになった昨今、ユタリーヒャに聞いておきたいことがある。
僕はそんなふうに思うようになっている。