風土とモード

雑報 星の航海術

まずは写真を見て欲しい。
モード評論家の平川武治さんだ。なんというファンキーさ! 端的にかっこいい。
平川さんと初めてお会いしたのは昨年11月、コム・デ・ギャルソンの小石祐介氏を司会とした、「スタジオ・ボイス」の編集長である加藤陽之氏を交えたトークライブの場だった。

流行やファッションを意味するモードという語を聞くと、現実となんら交差しない軽佻浮薄さを感じる人もいるかもしれない。

けれどもトークのあいだ、平川さんは静かにかつ真剣に怒っていた。美に対する感度の鈍磨。くわえて教養や歴史という人の骨格を形作るものを失ってなお恬として恥じない時流について、柔らかい大阪なまりの言葉で憂いを表明されていた。

平川さんの話を聞いて、モードというのは、たんなるおしゃれ好きからは生まれないし、流行に敏いだけでは、現在に起きている事柄への即物的な反応に過ぎないのだなと思った。

彼のいうモードとは、教養や歴史、この国の風土が育てて来た感性といった連綿性への敬意を含むのだろう。
それらは知識として把握したところで意味をなさない。なぜなら先人たちが磨いて来た有形無形の技術や発想、感覚の厚みという財には、類推なくして、肉迫できないものだからだ。知識は宝物の錠を開ける鍵にはなりえない。

先日、平川さんが現在お住まいの鎌倉を過日訪ねた。鶴岡八幡宮の鳥居に向けてまっすぐに伸びる参道は奥に進むにつれ狭まり、実際の距離より長く見えるように設計されている。

左右から路を覆うように咲く桜は、さほど高くもないこともあり、柔らかく往来人を包む。遠くに見える鳥居の朱に焦点を定めたような参道と桜の配置にも、きっと古人の風土と感性が関与している。

風土と感性、教養をナショナリスティックなものに安易に読み替えれば、クールジャパンになるのだろう。

しかし、そこには歴史の足跡に対する遠近感がない。遠近をもたらす視座は、自分がどこに立ち、その地歩は何によって得られたか、という振り返りなくして獲得できない。

平川さんはいう。「豊かさの表層だけを見ることに慣れてしまった人には遠近感がわからない。モードのデザインには風土がある。それはジグゾーパズルのようなものだ。そのピースを拾えば、風土を背景にしたものか、あるいは興味本位だけの、トレンドを追うだけのデザインなのかわかる」。

地主が掘ったというトンネルをくぐり抜けると、瑞々しい翠をたたえる竹が広がる。竹林を借景に庵然とした設えられた御宅にあがる。尺貫法で作られたと思われる間仕切り。

それから2時間あまりモードと身体の兼ね合いについて話をした。
1968年、パリ五月革命を機にフランスでの女性の社会進出が進み、さらには70年代のウーマンリブを背景にソニア・リキエルが登場した。平川さんによれば、彼女に影響を与えたのがシャネルだという。

シャネルは20年代にブルジョアの世界に参入しつつ、エレガンスという従来のゲームには乗り切らず、「古い価値観に束縛されない」という様式を確立した。それを70年代にサンプリングしたのがソニア・リキエルというわけだ。

やがて80年代に入ると、フェミニズムが台頭し、そういう意識を持った人の身体を包み始めたのがコム・デ・ギャルソン。そして、80年代後半から90年代にジェンダー論が登場、その生き方をデザインし始めたのが、マルタン・マルジェラという見取り図を示した。

デザイナーというのは、「新しい生き方をする女性たちの身体をラッピングしたい」という欲望を持っているものなのだという。

服をつくるということは、身体を考えるということだ。身体について考えると「身体性」という言葉でつい語りたくなるし、自分でも使ってしまうけれど、自重しなくてはいけないなとも思う。

身体性とは解釈であり、身体そのものではない。饒舌に身体について語ったところで、それは身体を知ることにはならない。むしろ経験的に培われた強固な予見を持って身体を見ることになってしまう。

僕が身体についてなにがしか思うとき、忘れないようにしていることがある。それは私たちは「直接、自分の顔を見ることができない」という事実だ。鏡を通じて反転した顔しか見ることができない。

認識とは、あるいは言葉によって世界を捉える行為は、常に反転した世界を記述する行為でしかない。

しかし、生は、身体は記述されはしない。記述することではなく、表現することをなおざりにしないように。おしゃべりを控えなくてはならないときがある。含羞が必要だ。

「心のありさまを行為にすることがハッピーなことですね」。平川さんは何度かそう繰り返した。

何事にも拘束されず、己の心のありようを最大限に発揮する。そのとき身体は、私という意識に囲われた身体性の枠から越え出ていくことになるのかもしれない。