熊本探訪

雑報 星の航海術

 7月10日から12日まで熊本を訪れた。

熊本といえば、坂口恭平さんを初代総理大臣とする新政府がこの3月に誕生したわけでw、もっとも日本で熱い地と言えましょうて。

新政府の根拠地であるゼロセンターに宿泊し、坂口さんの活動について聴き取りを行った。

このブログには、このところ七尾旅人さんや坂口さんの名が頻出している。

彼らはメディアを舞台にした、ラリーのごとく飛び交う言説—それは多くの場合、装填した知識を照準あわせて撃てば正解に到ると信じられている代物ーをよそに、移動しつつ思索している。
いや、正確に言えば、移動と思索がわかれていない。どういうことか?

<如是我聞>
ASIMOの開発にあたっては、当初積載したコンピュータによる計算と歩行をリンクさせようと試みたところ、初めの一歩を踏み出すまでに数時間を要したそうだ。

前方に広がる空間に段差はあるか。傾斜はどれくらいか。障害物はあるか。あらゆる可能性を計算した挙げ句、ようやくロボットは一歩を踏み出した。
技術者たちは情報を収集し、計算してから歩いている。人間の歩行をそう捉え、そのモデルをロボットにあてはめようとしたが不首尾に終わった。

そこでコンピュータを外し、人間の骨格に限りなく近いモデルをつくったところ、歩行はすんなりできた。

足首、膝、股関節は稼働領域が決まっている。確定した構造は、稼働域内で動く。それがスケールとなって外界を計算している。構造に導かれ、一歩を出せば不安定さを安定へと移行させようとして次の一歩が出る。

ここには正解に向けた運動はない。ただ移動の中で妥当な動きが自ずと現れた。

 

いま七尾さんは、被災地と非被災地の別なく全国を旅し、その道程で生まれた曲を歌っている。吟遊詩人たちが土地の物語を歌い、そしてまた歌う中で新たな物語を紡いだように、移動の中で創作を行っている。

そして坂口さんは東京から熊本に移住し、アートワークとして新しい政府をつくった。
これは原発も被曝した住民も置き去りにした政府を倒すための反体制運動ではない。

カウンターは相手あっての行為だ。新政府構想は、おそらく予め達成された革命後の世界に一方的に乗ることで、意識を変革させようとする試みだろう。

現行政府は、多くの生命をすり潰す無為無策を現実的な政治だと思っている。
ならば、現状の政治が規定する現実とは別の現実を構成し直すことで、誰もが生きられる世界を構築する。それが彼の考えだろう、か?

僕はいま注意深く、息を凝らすように彼の活動に目を注いでいる。

7月12日、Twitterで坂口さんはこうツィートしている。
「あなたが働いている会社も、苦労して買った土地も家も、貯めているお金も、税金を払っている国も、みんな幻である。年金なんか払ったとしてももらえる訳がない。税金なんか払っても被災地に提供されない。実像であると思わせるために必死に幻に色を塗っているペンキ絵の世界と僕は付き合っている」

「でもこの社会システムの中で直接的に全てをやめて新しい社会を作るなんて何年かかってもなかなか実現できない。だから、現政府と同じ時間、空間の中に新しいレイヤーを作り出し、新政府というものを発足したのである。それを違うレイヤーでやっているのが路上生活者たちである」

熊本の街を坂口さんと共に歩いた。

メープルシロップの缶のデザインに「かわいい」といい、ラトビアのデザイナーの服に「かわいい」と嬌声をあげるなど、互いがオリーブ少女ならぬオリーブ好き野郎だと知ったことはご愛嬌。

街の案内によって僕の知ったこと。

たとえば、ほかの人には薄汚く見える店があったとする。「実は、よそが真似できない味を提供できる隠れた名店」はgoogleで検索できるだろう。

店のたたずまいは、そこに集う人の思惑や意図を含んで空間の厚み、つまりは雰囲気を醸成している。存在の存在性を発光している。
発光は検索できない。人がそこに足を運び、感知するほかない。

拡散していく存在性、空気、atmosphereに感化され、そこかしこで立ち上がり始める。それが文化だろう。

感知は投網を打つことに似ている。目前の街に自分の感性の網を投げる。すると星座を見出すことができる。僕にしか見えない絵が見え始める。絵同士のつながりが見え出すと、物語が始まる。

そのとき街は、カタログスペックのような情報の集積や描き割のように見えた味気ない景色ではなく、「つながりを見出す」という自己の関わりなくして始まらない出来事となる。

関わりとは積極性であり運動だ。街は僕の足の運びに従って感受される。移動なくして存在しえなくなる。

街の消費情報の座標系に配置されたポイントを渉猟することが生活だと思わされてきた。それが社会を生きることなど長らく思わされて来た。

モバイルを携えても検索できるのは、他人の提供する既知の穏当な情報だけだ。自身が移動体、モビールでなければ見えない風景に満ち満ちている。

不可視のものを見る。それが本来の生活世界というものだろう。