祖母はシャーマン

自叙帖 100%コークス

京都は北大路といえば羅城の外であり、往時であれば鬼の棲むところであったろう。
父方の祖母が北大路に住んでいた。

いまではずいぶん開けきれいになったが、幼い頃、盆と正月に祖母の住まうアパートを訪ねれば、近くにあった大学の窓が常に破れたままであり、いつまで経っても手当てされないところに落魄の匂いを嗅いだ。

祖母と母はたいへん仲が悪かった。
祖母には「かわいい息子を取られた」という思いが強烈にあったようだ。

息子の息子たる僕からすれば、どの角度から見れば父のことが「かわいく」見えるのか皆目見当がつかず、そんな見方があればぜひ特許を申請したいくらいなのだが。げに贔屓目というのは恐ろしい。

両者の軋轢が本格化したのは、母が膠原病になったことを受け、祖母はいたわるどころか「身体の悪い嫁などもらうものではない」と詰ったことにあった。

だから盆と正月の帰省は、プロレスでいえば前田日明VS佐山聡みたいなもので、ギスギスしたガチンコが毎度繰り広げられていたのだが、父はといえば妻の味方になるどころか、祖母を庇うというマザコン丸出しだったから、そりゃ母もムキーってなりますわね。

さらに問題は、祖母は数多い孫の中で僕のことを異様に可愛がったことにある。祖母が目を細めて僕を撫でたりしようものなら、母の相貌は歌舞伎の隈取りもかくや!というほど、たちまち嫌悪に彩られ、僕はその形態変化によって「怖気を震う」という表現を体感で知ることができるようになった。

そんな母であるからして、僕と祖母との話が少しでも弾もうものなら、母は父や祖母にわからないように、僕の股をそっときゅっとつねる。

「和気あいあいとしてんじゃねぇよ」ってなものだろう。

そこで無愛想な顔をすると、今度は父が苛立つ。大魔神みたいに怒る。幼くして僕はダブルバインドの何たるかを知った。どないせぇっちゅうねん。

祖母と母、互いに直接会話をしないまま息の詰まる時間が過ぎ、ようやく帰り支度を始める段になると、祖母は決まって仏壇に供えていた干菓子をくれた。
干菓子には線香の匂いが焚き込まれており、およそ食欲をそそるものではない。

それよりも気になったのは、仏壇には阿弥陀如来なのだろうか。金色を背景に青や朱で描かれた仏画が飾られていたことだ。
菓子に手をつけかねたのは、鼻を衝く香が薫じられたこともあるが、毒々しい姿の仏に捧げられていた供物を敬遠する思いがあったからだ。

そしてときどき帰り際に父が祖母に言うのだった。
「拝むのもたいがいにしときよ」

 

祖母はシャーマンだった。
そのことを知ったのは、祖母が亡くなって10年経ってからだった。

母の死の半年後、永遠のライバルを失ったことに意気消沈したものか祖母も後を追うように逝った。
祖母の死から10年。なぜ祖父母が日本に来たのか知りたいと思い、親戚に聴き取りを行っていた。その話の途中で露見した。

祖母の息子、娘たちは、彼女の神懸かりになっての卜占を恥ずかしいことと捉えており、周囲をはばかりあまり明かしていなかった。

韓国には巫堂(ムーダン)と呼ばれる祝巫がいる。日本でいえばイタコ、ユタにあたるだろう。

祖母は生粋の巫堂だったわけではない。40歳を越えたある日、突然「神の声」が聴こえるようになったという。それから京都に漂泊していた巫堂のもとで修行し始めた。

6畳一間で障子のほかに壁はない極貧の生活の中、彼女に訪れた「声」は何を囁いたのかわからないが、ドラマティックに言えば大本教の開祖、出口なおの帰神にも似ていると言えるし、ありていに言えば根本敬の提唱する「電波系」かもしれない。

ともかく祖母は占いをたつきの一部とし始め、叔父の話すところによれば、「両手に包丁をもち、輪舞しつつ、最後は包丁を投げた」というから、カルチュム(剣舞)に近いものだったのだろう。
本来は剣をもって舞うところ代用品として包丁を使い、踊りつつトランス状態に入って行った。

クライマックスで包丁を投げるといった、忘我に神を見るエクスタシーも叔父には、「また投げよるわ。ほんま危ないなぁと思っていた」というおよそ文学的修辞を介さない感慨しか与えていなかった

霊感によって神を感知した祖母の言葉に周囲が感染していく。そんな厳かさは微塵もなく、民間の巫堂にふさわしく、雑多猥雑な雰囲気の中で行われたようだ。僕が見た仏画も本来の阿弥陀如来とは違った、雑密に近い立場から描かれたものだったかもしれない。

もとよりシャーマニックな荘厳さもスピリチュアルな清浄さも祖母の生きる空間には絶無だった。
雨が降れば辺りはぬかるむ、いわゆる不良住宅地である長屋の密集する朝鮮部落は被差別部落と隣合わせに位置した。

話は逸れるが、京都は部落解放運動が盛んだったが、差別も厳しいという印象がある。一度、母方の祖父母の住むKという町に向かうべく、タクシーに乗ったところ「Kには入りたくないから町の入り口で降りてくれ」と言われた。

生まれながらに貴いとされた上御一人がいる限りは、生まれながらに賎しいとされる人たちが措定されるのだ。

父の証言によれば、隣接する部落の人が一度、界隈に牛を連れて来、その場で捌くのを見たことがあるという。仕事から帰って来た人たちが集まり出し、酒を飲み、肉を食べ始めた。

鉄火場も開かれたようで、僕は炭の炎にてらてらと光る顔が夕闇の中に浮かぶ様子。博打に興じ、喋々喃々と話す光景を思い浮べる。
きっと男たちの飲んでいた酒は、祖母の濁酒だったろうと想像する。

祖母は卜占のかたわら濁酒をつくり、売っていた。警察が周期的にやってきては、密造酒の入った瓶を割る。
毎度「止めてくれ」と祖母は哀願し、警官の腰に巻き付いたが、酒は無惨に路地に広がり、しみて行く。祖母は哭いた。

そして翌日から祖母はまた酒をつくり、踊り、神の声を伝えた。
占いはと言えば、それなりに当ると評判だったようだ。