成島柳北について

雑報 星の航海術

幕臣、成島柳北が好きだ。
柳北をふと思い出したのは、先週熊本城に行った際、天守閣から四方を眺めるうちに、「そういえば鎮台兵が熊本城に籠城していたのだな」「田原坂はどちらの方角か知ら」と思ったことと関係している。

山田風太郎の小説では、柳北は騎兵奉行なのにやたらと落馬し、パリに遊学しても遊郭通いに熱心だった人物として描かれている。
惰弱で卑俗な人だったかというと、そうでもないようだ。

実際、幕府初の近代式編成を行った陸軍「伝習隊」を指導するため、 フランスから来日したシャノワーヌ大尉やブリュネ大尉(戊辰役に参戦し、「ラストサムライ」のモデルになった)にとても慕われたというから、洒脱だけではない骨の持ち主だったのだろう。

その風貌からも何となくうかがえるけれど、風雅を知る聡明な人柄だったようだ。

5年前の夏、国会図書館に連日赴き、明治7年に刊行された柳北主幹の「朝野新聞」を調べていた。

日本のジャーナリズムを立ち上げたのは、栗本鋤雲や福地源一郎をはじめ下野した幕臣が多数を占めている。
柳北も幕府瓦解後、文部卿のポストを用意されるもこれに応えず、隠棲していた。

彼が新聞業界に足を踏み入れたのは、 徳川慶喜の小姓だった某が落魄。市中で乞食となった姿を見かけ、愕然としたことがきっかけだったという。

当時、僕が朝野新聞の記事を調べていたのは、柳北が「西南戦争」に関して報じていた「西報」についてだった。(のちにこの調べものは、『唯今戦争始め候。明治十年のスクープ合戦』に反映されました。とてもおもしろい本です)

西南戦争の重要性は、日本近代最後の内乱ということだけではなく、その後の戦争報道のあり方を決めた意味でも象徴的な事件だ。

新聞各社は当時最先端の通信技術であった電報によって速報性を確保し、現地に記者を送り込んだ。
いまでもそう大差のない報道スタイルがこのときにほぼ確立した。

ちなみに記者よりも更に前線で情報を収集する人を「戦地探偵人」という。後の首相、犬養毅は若い頃、慶応大学の学費を稼ぐため、西南戦争時に郵便報知新聞の戦地探偵人を行っていた。

さて、柳北はといえば、メディアがこぞって戦地報道に全力を投入している頃、九州へ向かうどころか、京都に腰を落ち着けた。

そこでのんびりと暮らしながら 「探偵人の○○によれば」といった風聞や「西郷軍の兵士の手記」からの引用と称する出所怪しい記事を書き飛ばす。はては「官軍の将校が戦死した」といった誤報をけっこうやらかしている。

それでいて芸妓遊びに余念がなく「嗚呼、いまの京都には風情がない。昔はよかった」とか「なんだか毎日退屈だなぁ」といった雑感、暇ネタをしきりと書いている。 さぞ末広鉄腸はじりじりとしたろう。

過熱していく戦争報道を横目で見ながら、あまりに超然としている柳北の人を喰ったような態度。マイクロフィルムを繰りつつ僕は笑ってしまった。 誤報は意図的ではないかとさえ思えてきた。

ときに思い出したかのように詳細な地図入りの熱心な記事を書くのだけれど、
それが「講釈師、見て来たようにものを云い」な感じに見えて仕方ない。

彼には戦争報道のセンスがなかったように思える。しかし、それだけではなかったかもしれない。

前田愛のものした柳北の評伝などを読むとわかるのは、柳北は江戸の育んで来た文化をこよなく愛しており、それを一切価値なしとして破砕していく近代文明と覇道を予感させる政府のありように非常に違和感を持っていたということだ。
実際、明治8年、新聞紙条例、讒謗律が既に成立しており、柳北も明治9年、言論弾圧により投獄された。

柳北からすれば西南戦争とは文明の本質を問うことのない、ただの覇権争いでしかなく(薩軍の掲げた「新政厚徳」の何たるかはついぞ明らかにされなかった)、およそ関心の向かうところではなかったろう。

山田風太郎が『警視庁草紙』の終盤で駒井相模守と川路利良警視総監との文明をめぐる議論を書いたのは、柳北を思い浮べ、彼の恬淡に何かを見出したのかもしれない。

僕が西南戦争の報道記事を読んで感じたのは、メディアの西郷に倦んでいる様子であった。
維新の最大の功労者と目された人物が薩摩という旧時代の枠組みをついぞ破れないことへの鼻白む思いと、為政者の尻馬に乗っての放言半ばするところが行間に滲み出ていた。

城山の陥落にあたって、犬養毅はこう報じた。
「天既に明け、戦全く止む。諸軍喧呼して曰ふ。我西郷を獲たり、我獲たりと、而して西郷の首果たして誰が手に落つるを知らざる也。(中略)国家の旧功臣が死せるの日に悲しまざる可からず」

「賊平定」の一方で西郷の首は不明とする報道が続いた。西郷の死の二日後、柳北はこう書く。「天に西郷の星有て地に西郷の首無し」。この記事をきっかけに「西郷は生きている」とする「西郷星」伝説が生まれる。

薩賊、国賊と権力の規定するままに嬉々として報じて来たメディアはこんどはこぞって西郷星を取り上げる。
賊と規定した眼差しを疑うこともないままに、フォークロワに事寄せた英雄視然とした論が述べられるようになる。

明治の頃からメディアの特質、というよりも宿痾は変わっていない。
そう思うと柳北の韜晦に見える姿勢は、事象を対象化することの罠について暗黙のうちに語っているようにも思えるのだ。