美しい日本語のその理由

自叙帖 100%コークス

「おまえのお祖母さんは、昔お嬢さんだったんだぞ」

父はなんどかそういったことがある。
ふだん無口な父が酒を飲み、珍しく饒舌になってはしゃいだ折りの話なものだから、てんで相手にしていなかった。

ホラにしか聴こえなかった訳はそれだけではない。
祖母は字が読めず、炊事洗濯などの家事が一切できなかった。口の利き方も乱暴で、どうしたって「良家のお嬢さん」に見えない。

そうやって判断する僕は、ずいぶんこまっしゃくれた子どもだった。

なにせ両親の意向で進学塾に水泳、習字、算盤と週5日の習い事に通い、知識と教養を身につけることによって、一人前の、つまりは日本社会に参入できるだけの近代市民に成ることを期待されていたのだ。
その目からすれば、祖母をはじめとする親戚の日本社会の階梯秩序に参与しない振る舞いは野卑であり、ひっきょう朝鮮的なるもの=野蛮として映じて当然だった。

だから親戚一同の介する法事が苦痛でならなかった。
祭祀は儒式で行われる。ベルトリッチの『ラストエンペラー』で幼い溥儀が初めて文武百官の前に姿を表すと、広場に居並ぶものが三跪九叩頭をするが、ああいう類いのものだ。

床に額ずく行為を終えた後、食事をする。何を生業にしているのかわからない叔父たちが酒で顔を赤らめ、猥雑な話に盛り上がり、「将来、おまえは何になるんだ」などと絡んで来る。

法事に参加できるのは男のみで、叔母たちは台所に引っ込んでいる。膳を運ぶ手伝いをしようものなら「男がそんなことするな」と叔父らに叱られる。

当時の僕にとっては、これらすべてが“土人の習俗”に思えてならなかった。
男たちは祖母を上座に胡麻油と唐辛子の効いた料理に舌鼓をうち、僕は強い刺激しかもたらさない味に淡いを感じず、舌打ちをする。

不機嫌そうな僕のもとに祖母がやって来、何やら話すのだが、韓国語と日本語が絶妙にブレンドされた独特の言葉で、何を言っているのかわからない。
押し黙った僕の髪をしきりと撫でる祖母だが、内心言葉の通じない辺境に流された気分だった。嗚呼、なんという嫌なガキだったろう。

祖母が亡くなって10年経った1997年、ちょうど働いていた小さな新聞社でリレーインタビュー企画を担当していた。
その頃、「新しい歴史教科書をつくる会」という組織ができ、意気軒昂であったことから「歴史認識と日本人」というテーマで様々な見解をもつ識者の方々に意見を聞くコーナーを企画した。
色川大吉さんや櫻井よし子さん、鈴木邦男さん、吉田司さん、村井吉敬さんといった方々に登場いただいた。

そういう仕事をする中で、はたと気づいたのは、「大文字の“歴史”について知ることは増えても、いま僕がここにいる原因になっている祖父母について何も知らない」ことだった。

亡くなった母方の祖父母、親戚とは後に書くこともあろうが、やんごとなき理由で縁がなくなっていた。そこで僕は父方の親戚に聴き取りを行うことにした。それには長兄がよかろうと夏の盛りに京都を訪ねた。

叔父はアルバムをいくつか用意してくれていた。叔父が明かしてくれた祖父母の来日の背景はこういうものだった。

祖父と祖母は一緒に日本へ来たのではなく、日本で知り合った。
ふたりとも1930年代初頭に渡日したらしい。
祖父は水呑百姓の貧乏人であったが、祖母は金持ちのお嬢さんだった。

ここに来て「金持ちのお嬢さん」のキーワードに「またか」と思い、「これは尹氏の都市伝説なのか?」と怪しんだのだが、叔父に渡されたアルバムをめくって驚いた。

白黒の古びた写真に写っていたのは、祖母の親族で警官やスーツ姿の人たちがいた。
植民地時代に治安維持ならびに行政に携わることのできた人というと、ありていに言えば「親日派」であり、年代にもよるだろうが、地主をはじめとした富裕層だと聞いたことがある。

「当時の親日派といえば、売国奴の響きに近しいもので、そう誉められたことじゃなかったんだろうな。親日派の走狗の末裔か」などと苦笑いしつつ、アルバムを繰っていると、叔父がいう。

「お祖母さんは昔、“買物に行くときはお付きの人と一緒に行った”と言っていたよ。それなりの良いところのお嬢さんだったみたい。実際、お祖母さんの妹さんは女学校に行ってたしね」

叔父の話を聞いて、忘れかけていた記憶が蘇った。

1981年、生まれて初めて韓国へ行った。
前年、朴正煕大統領が暗殺され、全斗煥がクーデタを起こした。光州事件もあり、南北関係も緊張しており、政権の帰趨については予断を許さない状況だった。

日本に帰国後、父は「いやぁ、捕まるんじゃないかと内心ひやひやしていた」と漏らした。
父は若い頃、朝鮮総連の専任活動家であったから、反共が国是の軍事政権であれば逮捕拘束もありえるのではないかと思っていたという。それなら家族を連れて行くなよという話だが。

韓国を離れる前にソウルに住む祖母の妹、大叔母の家を訪ねた。
出迎えてくれた大叔母の祖母とのあまりにそっくりの容貌に、いつもの祖母を思い出し、少しうんざりした。大叔母は僕にこう言った。

「こんにちは。はじめまして。よく来てくれましたね」

大叔母の家は、鉄扉を開けると前庭が広がり、そこに陶製のキムチの甕がいくつか据えられており、昔ながらの韓国の住宅だった。

彼女の挨拶の言葉を家内のどこで聞いたか思い出せない。
家の様子を詳細に思い浮かべようとすると「こんにちは。はじめまして。よく来てくれましたね」の言葉がたなびくように表れる。想起された景色の中にその言葉の涼しい音色が溶け込んでいく。

僕はこの年になるまで、あれほど美しい日本語を聞いたことがない。
風貌は祖母に酷似しているが、話し方、立ち居振る舞いがまるで違っていた。身のこなしのひとつひとつが優雅だった。

当時、日本人でも女学校に通う人は稀だった。
大叔母の言葉は、学校の中で身につけられたものであったろうが、それは教科書やNHKのキャスターの話す平板さを標準にしたものではなく、折り目正しさを踏まえつつ、「よろしくてよ」「ごきげんよう」などと言ったり、「今日、あんみつ屋に寄って行かないこと?」などと話していたのかと、うっかり連想させるような振れ幅のある話しぶりだった。

そうして僕は気がつくのだった。祖母が家事をうまくできなかったのも当たり前だと。
周囲のものが世話してくれたのだから、自ら行う必要もなかったのだ。