ワンダーランド駅で

雑報 星の航海術

久方ぶりに「ワンダーランド駅で」を観た。

この映画を知ったのは数年前。友人宅を訪ねたとき、彼は煙草をくゆらせながら最近観た中では「ワンダーランド駅で」がお気に入りだと言った後にこう続けた。

「考えてみると、そう悪くないもんだよ、孤独っていうのはね…、孤独とは何と優雅で穏やかなんだろうと思うよ」

ワンダーランド駅ですれ違う男女の物語。
ふたりの恋が始まるまでを描いているようにも見えるけれど、たぶんそれだけじゃない。

フィルムの中に描かれたストーリーを追う中だけには現れないような、妙に余韻の残る映画だ。
余韻というのは、言葉にすると陳腐だけど、孤独の持つ妙味だ。

孤独を埋めるために人の優しさと理解を得ようと努める無邪気な人たちが本作には現れる。
知らず知らずのうちに彼ら彼女らは「何か」を求める。 それが何かはわからない。 愛でも信頼でも承認でもあるような「何か」だ。

見返りを与えてくれる“誰か”は誰であっても構わない。 孤独を埋めてくれるのならば、誰でも構わない。
その構わなさの間口の広さが期待への応答として錯覚できる。それを運命の人と呼ぶのだろう。

けれども孤独は寂しさだけとはつながりはしない。 孤独の持つ静けさは、穏やかさでもある。

穏やかさは保とうとして保持されるものではなく、私の静けさの中で保たれるもので、それは壊れやすく弱く見えるから、積極的に評価されることはない。

心に宿る孤独さから自己の理解を求めることは、間違ってはいないが、 間違っていないだけに曰く言い難い何かを感じる。

孤独の穏やかさで得られた充実感を誰かに伝えたい。これは承認というような一方的な理解を求める行為ではなく、 つながり、橋を架けたいという思いが根底にあるはずだ。 架橋の良さは、互いが行き来できるところにある。

ワンダーランド駅は寓話に出てきそうな名前にも思えるけれど、 ボストンに実在する。

そこはいろんな人が行き来する。 そういう場所で出会うべき人同士が出会う。
その出会いは“そう”としか言い様がないのだから、 わざわざ運命と言わなくてもいいだろう。
幸いとはそういう図らずも舞い降りる時のことを指すのかもしれない。