労苦の果て

自叙帖 100%コークス

「苦労は買ってでもしろ」というけれど、僕はそれに懐疑的だ。
苦労などしないで済むならそのほうがいいと思っている。

苦労と呼ばれるもののうちで経験される侮り、痛苦がその人の柔らかい部分を根本的にダメにしてしまう場合が多いと思われて仕方ないからだ。

けれども苦労した結果、成功を手にした人に限って、なぜか労苦をよいものとして称揚しがちだ。
それは本人が「苦労を重ねたからこそ成功した」と思っているからだろうけれど、話を子細に聞くと、当人の認識している「苦労」以外の何かによって功を成したことも多い。

結果から原因を求めると、いちばん実感の求めやすい苦労につい目が行ってしまって、そういう意味では人はやっぱり認識できることしか認識できないのだなと思う。

さて、前回も書いたように、祖母は日本へ来たことで、韓国で味わう必要のない辛酸を嘗めてしまったわけだが、なぜお嬢さん育ちの彼女がそんな選択をすることになってしまったのか。

その疑問を長兄である叔父にぶつけると、頭をかきつつ、「いやぁ、勉強が嫌いだったかららしいよ」と返した。
勉強が嫌いで日本へ渡るとはこれ如何?

大叔母と違い、祖母は勉強が大嫌いだった。人から何か指図されるのが苦手な性分だったのもあるだろう。

いまも昔も学校というシステムは、問いを立てるためのひらめきを発芽させる場ではなく、既定の結論を集積していくことを目指している。これが祖母の神経を逆撫でに撫で続けたようだ。

ある日、忍耐の限界が訪れた。下校途中に教科書を“ええい、ままよ”と川に投げ入れた。彼女は高笑いのひとつもし、せいせいしたことだろう。しばらくして、はたと気づいた。

「このまま家に帰ったら家人に怒られるな」

そこで祖母は出奔した。

叔父の知る限りの祖母の来日の経緯は、実にこういうものであった。てっきり祖父と連れ立って日本へ来たのだと思っていた僕は、ドラマ性のあまりのなさに拍子抜けした。

帝国の周縁から中心への労働力の移動というトレンドをものかは。女学生の思い立ったが吉日の家出は、玄界灘をあっさり越えた。その健脚快足恐るべし。

それが祖母の表向きの、いわば正史であろうが、稗史のほどはわからない。語られ得るものだけが語られた。

では、彼女の語る正史に名を連ねる祖父とはどこで出会ったか。
祖父は僕が生まれる遙か前に亡くなっており、その人となりも来歴も不明だった。

祖母の来日の経緯を知る以前、僕は祖父の生まれた村を単身訪ねたことがある。オリンピックから3年経った1991年のことだ。

ソウルで生まれ育った祖母と異なり、祖父は慶州北道の寒村に生まれた。村の番地にいちばん近いバスターミナルに降り立ったものの、目指す村に向かう交通手段がない。

とりあえず一息つこうと喫茶店に入ると、隣席の男性が日本語で話しかけてきた。僕は「祖父の生まれたところを見たくてやって来た」と答えると、「名前はなんという?」と尋ねた。

紙にハングルで名を書き付けると、彼は電話帳を持って来、しきりにページを繰り始め、やおら立ち上がり何ヵ所かに電話をかけ始めた。誰かとひとしきりしゃべった後、席に戻ると僕にこう告げた。

「おそらく君の親族と思われる人に電話をした。いまタクシーも呼んだから、それに乗って行きなさい」

このてんこ盛りの親切、いかにも韓国だな。そう思った。

あの優美で、ジャパナイズされたに見えた大叔母にしてもそうだった。
彼女の家に滞在した初日、「食事は何が好き?」と聞かれ、「プルコギ!」と答えたところ、それから二日間、毎度の食事が焼き肉だった。たしかに美味しかった。しかし、限度というものがあろう。

二日目に入り、さすがに肉に飽き、箸も進まない様子の僕を見て、大叔母は「肉が好きだと思ったのに…」と悲し気な顔をした。

「さしも知らじな 燃ゆる思ひ」は秘すればこそ花ではなく、彼の国では満漢全席で示してこそ華なのだ。

ともあれ喫茶店にたまさか居合わせたおじさんの贈与のような好意によって、僕は尹一族の村を訪れることができた。

村にいたる山間の道はまったく舗装されていなかった。車は速度を緩めてしか走れず、ところどころ開いている穴にタイヤをとられ、車体は跳ねた。

山道を上り切ったところで目前に半月の湖が広がっていた。湖のへりに田畑がわずかに広がる、貧しい村だった。

出迎えてくれた一族の男子は、京都にいる叔父連中と同じく、耳まわりを残すのみの禿げ方を全員しており、後ろから見たら誰が誰かわからない。トランプの神経衰弱だったら全部当りだろうなと、そこに僕は一族のDNAを感じた。

尹氏一族の住む村の様子とソウルでの大叔母の暮らしから当時を連想するに、祖父母の結婚は身分違いの色合いが濃く、当時の韓国であれば到底かなわなかったろう。

祖父の来日は、貧しさからの離村であったろう。出自の異なるふたりがどのような経緯で知り合い、結婚にいたったのかわからない。そもそも祖父母の結びつきが、いま僕らが思っているような婚姻であったかどうかもわからない。

ものの弾みの道行きだったと息子らに断片的に語った祖母の来日に関する物語は、額面通りに受け取ることはできない。真偽の程はわからない。それだけが確かなことだ。

自分で食事をつくったこともない。お金を稼ぐ手段ももたない。
生きるための方法を身につけることなく、生身を世間の風にさらした結果、ムダに痛苦を刻むことになってしまったものか。

大本教の開祖、出口ナオは赤貧洗うが如しの暮らしの果てに人知の及ばぬ世界を覗き込み、「三千世界一度に開く梅の花 艮の金神の世に成りたぞよ」と神懸かりの言葉を発し始めた。

貧寒の底をさらう生活をし、「朝鮮人に貸す家はない」と家を叩き出されたりするような痛苦を味わう中、人事の約束でできあがった世界の縁に立ったとき、祖母はシャーマニックな力を目覚めさせたものか。

彼女が初めて語った託宣がなんであったか。知り得るものなら知りたい。