コーヒープリンス1号店に行ってみた

雑報 星の航海術

新大久保のホットスポット、コーヒープリンスに行ってきた。

韓国のドラマのモチーフを再現した店だそうで、かねてコーヒープリンス詣でをする人がいると噂に聞いていたのと、お台場のデモの翌日でもあるし、街の雰囲気ともども感じたいなと思っていたら、タイミングよく友人のKさんに誘われたので、そそくさと出かけた。

まずは新大久保駅前の変わりっぷりに驚いた。
「確か数年前までは延辺料理屋が数軒あっただけの場末感漂う通りであったよな」などと訝しんでいると、僕のそばを女性3人組がうふふきゃっきゃと通り過ぎるや、「あ、パッピンスの店だ。食べたい!」と嬌声をあげる。
パッピンスとは韓国の氷菓だが、さても人口に膾炙したものであったかと驚く。

街の色はたしかに韓国のそれだった。通りの両側はチャン・グンソクをはじめとした俳優陣、少女時代、KARAグッズを揃える店と韓国料理屋が交互に軒を並べていた。

店はどれも洗練さに欠いている。が、グッズをあれこれと漁る女性の熱気と人いきれが「そんなことはもはや重要ではないのだ」と語っているように感じた。
この久しく感じなかった街の活気。何かが剥き出しになっている。

そんな気配を感じつ、コーヒープリンス1号店のあるビルのエレベーターに乗り込み、3階を目指した。

店に入り、Kさんと編集者のYさんのいる席に着く。男性客は僕のほかひとりのみ。
「コーヒープリンスに男性ひとりだけで行くのは、アウェイもいいところだ」と聞いていて、それを最初に耳にしたときは、女性の多いカフェでもケーキ屋でも平気で行くから問題あるまいと思っていたのだが、合点がいった。たんに女子が多い店とは質が違った。

店内の雰囲気を表すならば、さしずめ“むぉん”だろう。何かが現在進行で煮詰まっていく感じ。
彼女らはじかに見はしないけれど、明らかにそれぞれにお目当てのウェイターがいて、確実にロックオンしている。男の子たちはしっかりとした体つきをしている。

早番と遅番の交代時間なのだろう。ひときわ美男のウェイターがスタッフに向けて、胸の前で両手をひらひらさせて「おつかれさま」と韓国語でいったとき、店の大半の女性がそのポーズをスキャンするかの勢いで熱い眼差しを注いでいる様子に笑った。

あえかな息の漏れに濃霧がかかるんじゃないか。
ありていに言えば、この空気の名は性欲だと気づいた。驚いた。いつの間に、韓国の男性がそんな対象になったんだろ?

僕が感じた空気性欲説を言うと、Kさんと編集者のYさんはかぶりを振った。

聞けば、さっきまで隣席にいた女性は静岡からやって来、韓流にはまってから不順だった生理が定期的に来るようになったという。
しかも、件の女性は韓流スターにはまった理由は結局のところ「抱かれたいから」と言ったそうだ。ビンゴ!

なんだかわからないけれど、立つ瀬がないような心持ちになって、「日本の男性(自分を含む)の何が問題なんですか?」とさらに尋ねると「何もかも!」とKさん。

コーヒープリンスにいると、酸欠のようなちょっと上ずった気持ちになってうまく話せない。ビールでも飲もうという話になり、河岸を変えた。

10年くらい前、フィリピンやコロンビア、ロシア、中国人と思しき街娼のお姉さんたちが立ち並んでいた通りは韓国料理屋でぎっしり。街の面貌は変わっていた。

サムギョップサルを食べながらさらに話をする。
曰くK-POPの男性がジャニーズ系と決定的に違うのは、身体だ。胸板だ。チョコレート腹筋だ。

店内で流れる映像はK-POPの有名どころが一同し、パリで公演したときの模様らしい。客のほとんどが女性で東洋趣味やオタク系ではない。
白い肌のラテン系や褐色の肌をしたアフリカ系のフランスの女性が僕の知らぬグループの歌う歌詞を口ずさみ踊っている。
瞠目すべきは、彼女たちの浮かべる表情は、明らかにセックスアピールに感染してのものだった。

コーヒープリンスだけじゃない。新大久保の通りに感じた気配は濃淡あれどやはりセックスだ。
それもかつてのヨン様ブームを牽引した中高年層ではなく、原宿あたりにいる子と変わらない若い層が醸成している空気だ。

なぜその欲望が日本人男性に向かわないのか?と改めて思ったが、その問いがすでに的を外しているのだろう。
ここに至っては、日本の女性が懸想の対象を日本人のみとする発想そのものが古いのかもしれない。

いまだに男を立てることを求める層が少なからずいて、傷つくのが嫌だから優しくリードして欲しいという、結局のところ一周まわって「僕のことを立てて欲しい」と願う世代がいて、ひとりの人間として見られることもなければ、ひとりの生身の女性として求められることもない。

怒りと失望と諦めが彼女たちの胸底にあるのかもしれない。
つまり、問答無用に求められる実感を欲していて、彼女たちは野生の身体に望まれることを能動的に求めているのではないか。

そう、しなやかな身体があればいい。
もう男女の関係に心理の突き合わせだの慮りだのはいらない。
能書きを彼女たちは求めていないのかもしれない。

となると、これはすぐれてジェンダーの問題ではないか?

そこまで思ってはたと気づいた。
あら? 僕は身体髪膚、所作、言葉遣い。これらを限りなくジャパナイズしてきたわけだけど、その努力はどうなるのと。
父や兄のように日本社会が暗黙のうちに措定する穏当さからはみ出すと、たいへん生きづらい目にあうと学習した成果は奈辺に落着するか。

日本の女性が現状の社会の枠内で培養された身体など求めていないとすれば、なんと僕は自らにコルセットはめるようにして窮屈に生きてきたことか。

「これまでの努力は何だったんですかね?」とKさんに聞くと「無駄だったんじゃないの」とあえない一言。撃沈。

現況、「人の迷惑を考えろ」だの「空気を読め」と、既成の社会の間尺に合わせて馴致されることを良しとする傾向がいよいよ高まっている。

新大久保に蝟集した女性たちは、そういうことにうんざりしているが、それをイデオロギーや主義にこと寄せて語りはしない。しかし、行為でそれを示しているように思えた。

帰路、「拙い日本語で激しい愛の言葉を囁かれるのがいいのだよ」と聞いたので、機会があれば試してみようと思った。
しかしながら、結局のところビジュアルがソン・ガンホのような厳つい自分には、身の丈にあわぬ噴飯ものの所業だろう。