通り過ぎた夏の思い出

自叙帖 100%コークス

僕の住んでいる街は坂が多い。
この時節、坂を上り切り、折れて路地に入った途端、鬱蒼と樹木の繁る庭を高い塀で仕切った屋敷から瀑布のような蝉の声が流れ込んで来、耳朶を打つ。
白昼の目を開けるにも一苦労の陽光の中を、誰を呼ばわるでもない音声に出くわすと、不意に思い出すのは子どもの頃の夏休みの思い出だ。

とはいっても、虫取りをしたことがなく、野原を駆け回ったこともない紫外線アレルギーの嫌いのあった僕の夏休みの思い出といえば、もっぱら家に籠っての遊びが主であって、そんな自分にとっては、ときに夏休みの宿題も憂鬱な代物ではなく、嬉々として取り組むべきものだった。

とくに図画工作だ。
高学年になるまで図画工作の宿題は「紙粘土で何かつくって来い」というような適当なものが多く、級友には粘度を丸めて「おにぎり」と銘打って提出したものもいた。

いまなら確実に問題教師として告発されるであろう、不適格な人物が教職についていることも多く、体罰も横行していた。
「おにぎり」といった前衛的なものをつくろうものなら、教師はなぜか自分がバカにされたと思うらしく、拳骨でもって応えていた。

余談ながら、これは当時の気風なのか、ユーモアを解さない教師たちは、己の怒りを発散させる際、揃いも揃って「考えてから行動しろ!」と叱責する人がたいそう多かったのだが、これが不思議でならなかった。
だって、考えていたら行動できないじゃないか! いまの学校でもそういうものの言い方をするのだろうか。

それにしても意味のないことが繰り返され続けると、それ自体が強度を増し、意味を帯びてしまうことがある。

畢竟、「考えてから行動しろ」が獲得するのは、「考えずに言われた通りのことをしろ」ではないかと思う。

さて、僕が手始めに紙粘土でつくったのは、前方後円墳(仁徳天皇陵)だった。夏休み明けに満を持して教師に提出したものの、「なにこれ?」の一言で終わった。

その頃の僕は他人の評価をあてにしないところがあったので、他者の欲望に応えて何かをつくらなかったという点において、よほどいまより純粋だったと見える。

というか、たんにアスペルガー的な素行が出ただけなのかもしれない。
評価は欲しなかったが、不思議だった。「なぜみんなは前方後円墳の美しさに打たれないのだろう?」と、訝しく思った。

往時、ディアゴスティーニの前方後円墳のキットがあればたぶん買っていたと思う。上から眺めてよし。横から眺めてよし。

前方後円墳を見ながら、「高き屋にのぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」と歌ったすめろぎの心持ちを忖度するのもいいだろう。何にせよ非常に洗練されたデザインだ。

そして翌年は、「荒城の月」のモデルとなった岡城の石垣を紙粘土で再現するというたいへん地味なものを提出した。ひとつひとつ石をつくり、それを重ね、打込み接ぎ仕様として再現。これもまた教師のお眼鏡にはかなわなかったようだ。

数年前、みうらじゅんさんに取材した折、彼が仏像マニアを任じていた頃でもあったので、話のついでに「僕は石垣が好きなんです」というと、「いるよね、そういう人。坂東八十助(現・三津五郎)さんがそうで、彼も小さいころから石垣や城の絵はがき見て空想にふけって楽しんでいたらしい。そういうのはね、大人になって目覚めるものじゃなく、不治の病だからやめろと言われても絶対やめられない」と話していた。

そう、吉田松陰先生も仰っているように「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ」心持ちなんですよ。

いまでこそ石垣マニアの存在は世間の認めるところだが、1970年代の小学生にとって、石垣を愛でる仲間を探すのは困難を極めた。

運命的な邂逅は小学3年生のとき訪れた。僕の熱情を理解してくれた人がクラスにひとりだけいた。石原康臣くんという。

彼の名を知ったとき、興奮した。なぜなら徳川家康が大坂の陣の開戦の口実とした、方広寺の梵鐘「君臣豊楽 国家安康」を想起させたからだ。
石原君は僕の当て所のない石垣に向けた情熱をずいぶん熱心に聞いてくれた。

いつしか彼の家でお絵描きにふけ、源頼朝の似絵を写生し、どちらがうまく描けたかを競うといったまでに仲良くなった。がしかし、夢のような日々も束の間、石原君は転校してしまった。

理解者を失った僕はやさぐれてしまった。もともと楽しくもなかった学校はいよいよもっておもしろみを失い、己の趣味を貫く一点においてなりふり構わぬようになった。

たとえば家庭科の時間に、枕カバーをつくることとなった。修学旅行に持参するのだという。各人が自分で考えた図案をちくちく縫うこととなった。

僕が選んだ図柄は、屋島の戦いにおいて那須与一が平家の求めに応じて、海に進めた馬から矢を放ち、みごと扇を射落としたシーンであった。

自分としては会心の作であった。
だが、実際に使ってみたところ、緋威の鎧の草摺と袖の部分がちょうど頬を刺激し、たいそう夢見の悪いものだった。