世界そのものが世界

雑報 星の航海術

ロボット工学の研究が飛躍的に伸長したのは、1980年代に入り、ロドニー・ブルックスが「世界そのものが世界のいちばんいいモデルである」 と提唱したことに始まった。そう先日聞いた。

「世界そのものが世界のいちばんいいモデルである」とは、「目の前に現われている現実こそがこの上ない現実である」に言い換えることができるだろうが、重複した内容の強弁にも思える。

凡庸に思えるこの言葉がロボット工学、人工知能の領域にイノベーションをもたらしたという。

現実こそが最良のモデルである

それまでの考え方では、人間は世界そのものを見ているのではなく、世界のモデルを脳でつくり、認識したモデルに従って行動を起こしていると考えられ、ロボットにも同様の構造を求めた。

しかし、そういう発想では実際の人間の行為の再現には到底いたらなかった。つまり、人は自らが認識していたようには、組み立てたモデルを実行するような振る舞いをしていない。

そこで発想の転換が起きた。それが「世界そのものが世界のいちばんいいモデルである」であった。
人は空間の中で事柄に出会ったとき、そのつどそれを知覚し、最適と思われる行動をしている。

モデルは予測された世界の姿であり、常に現実とずれているが、モデルという思惑の外に存在する現実は、常に現実である以上、現実とずれることはない。

だから現実を把握するには、概念としてではなく、現実そのものとして理解する以外に理解のしようがない。

巌中の花はいつ咲くか?

ところで、そうした行為の中で認識して得た知識のストックを記憶と呼んでいいだろうが、個人の記憶の総量が知性を特徴づけると思われている。
貯蔵された記憶の総量が個の判断、行為の精度を上げて行くという考えは、とても親しみやすい。

しかし、本当にそうなのか。
よく考えてみれば、私たちが何かを想い起こすのは、常にいま改めて想起された過去の出来事であって、過去そのものではない。

私たちが記憶と呼んでいるものは本当は何なのか?

陽明学の始祖、王陽明は「深山の花はひとり咲き、ひとり散る。わが心と何の関係があるか」と問われ「君がここに来て、この花を見たとき、この花の色ははっきりとした。つまり、この花は君の心の外にあるのではないことがわかる」と返した。

王陽明がここで言う“心”を身体と言っても同じことだ。
つまり、そこに身を立ち合わせたときに起る出来事が世界であり、記憶によってつくられたモデルの範疇に世界はない。そう読み替えてみることができそうだ。

記憶がないわけではない。しかし、それは個に収蔵された何かではない。現実に触れたときの私と外のそのつどの照応関係の想起を記憶と呼んだほうが適切かもしれない。

記憶とは、自己の内側にある個別のものであるという実感が強固にあるのは、恐怖ゆえかもしれない。
昨日の自分と今日の自分をうまく接合させ、意識を駆動させるため、恐怖は存在しない連続性をあるかのように現出させるのではないか。