慢心に関する考察

雑報 星の航海術

先日、奈良は東大寺に赴き、北河原公敬別当にインタビューした。
取材の最終日に「我慢」について話をいただき、なるほどと思うところがあった。

我慢は本来、仏教用語であり、いまでは忍耐や辛抱強さなど肯定的な意味合いで使われているが、仏教の理に即して言うならば、慎むべき態度なのだという。

我慢は、人間に備わる心の働きである「他を侮り、自らを驕る」といった慢心のうちのひとつであり、慢心には七つある。
内訳は慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢。

 

それぞれが意味するところを述べると以下のようになる。

慢  :自分より劣った者に対して「自分は優れている」と自惚れる。
過慢 :自分と同等である者に対し、「自分の方が優れている」と驕り、自分より優れている者に「自分と変わらない」と侮る。
慢過慢:自分より優れている者に対し、「自分の方が優れている」と自惚れ、他を見下す。
我慢 :自我に執着し、自分の行いに自惚れ、それを恃む。
増上慢:悟っていないにもかかわらず、「自分は悟った」と思う。
卑慢 :自分より明らかに優れている者に対し、「相手は確かに優れているが、自分もそれほど悪くはない。少ししか劣っていない」と思う。
邪慢 :徳がないにもかかわらず、「自分は偉い」と誇る。

 

とりわけ卑慢の説明に差し掛かったとき、「こうまで微細に心の働きを言い当てられ、狡さの首根っこをぴたりと押さえられてしまっては、逃げ場がなくなるではないか」と思わず苦笑が漏れた。
これほど見事に心のすみずみまで捉える仏教の学理に感嘆した。

しかしだ。遙か昔にこのような学理が明らかにされていたにもかかわらず、いっこうに人間は心に振り回されっぱなしわけで、しかもいまさら「煩悩のせいで思うようにならない」という言い訳を持ち出すこともできない。煩悩の取り扱い説明書も仏教は開示しているのだから。

帰路の新幹線でも慢についてつらつら思っていたら、ハッとして思わず座席から立ち上がりそうになった。
慢から邪慢を慢心の増大ぶりにしたがって肥大していく、つまりは心の動きを単線上の出来事として捉えることそのものの誤りに気づいたからだ。

心にはそもそも慢があるのであって、怠惰な思いがあらかじめ備わっている。
その時においての表現のされ方が七慢なのであって、もしもこれを足し算のようなものとして考えてしまったならば、「この程度の慢だからまだマシだ」とか「努力すればいずれそのうち何とかなるだろう」という慢心を招くのだ。

駅弁を食べつつ、「仏教というのは本当によくできているなぁ」と得心した僕は腹がくちたこともあって、ことりと眠りに落ちたのであった。