ガラパゴス的バイブと幻想

雑報 星の航海術

先日、笹谷遼平監督の「すいっちん-バイブ新世紀」を観た。
笹谷監督の作品は、「社会の歯車に詰まる石になりたい人のための」と銘打たれたドキュメントDVDマガジンとして年に3回ほど発刊されており、ドキュメンタリーへの興味を掘り起こす試みもいまどきでおもしろい。

さて、「すいっちん-バイブ新世紀」は、タイトルからもわかる通り、性具の開発販売に携わる人たちを追ったドキュメンタリーなのだが、これが想像していたよりもおもしろかった。

浮世絵では張型を使う女性が描かれており、性具は珍しいものでもなかったと思われる一方、絵に登場するからといって、女性たちがどういう意味合いで使っていたのかまではわからない。

「言うまでもなくオナニーではないか」と思うだろうが、話はそれほど簡単ではないのだなと、「すいっちん-バイブ新世紀」を観ていて思った。

作品に登場するバイブの開発や販売に携わる人は多種多様だ。
ハイテクにこだわったり、「いや、ハイテクではダメなのだ」と独自にアナログの器具開発に凝ったり、あるいは独自の性愛論を展開する人がいる。

いずれも男性なのだが、彼らは女性が自らのために使うことを独自の観点で捉えており、あくまでバイブを「セックスの代用」として考えている。つまり男の機能を象徴化したものがバイブなのだ。

だから見た目はあくまでペニスそのものが重要であり、それが女性の欲情をそそると堅く信じている。「女性に意見を聞いたら、ピンクがよいといった」ので、およそ品のないピンク色した、静脈の浮き出した加減もリアルな大きなバイブの機能の魅力をとくとくと語る。

実にうれしそうに誇らし気に語る。まるで収穫した土地の幸を自慢するように。

彼らの願うところは、女性の快感を引き出すところにあり、その目的を達するための機能を得るべく日夜努力をしている。つまり、女性が主体的に使うのではなく、男性が女性に快楽を与えるために使う。
なぜならエクスタシーをもたらすのは男性の責務であり、男抜きの自足した快楽なぞ週刊誌のつくりだしたお伽噺、絵空事だと断言する。

もしくは女性が自ら快楽を得られる欲望をもっていることに思いを致す人も「エクスタシーによって人格が開放され、前向きな人生を送れる」といった、快楽を得る行為がどこかで求道を、しかも単線的に目指すといったファンタジーになってしまう。

誰も身体の感じる現実の快楽に目を向けていない。

ドイツやフランスでは空港やランジェリーショップで性具が売られているという。それも日本製のような人体に影響を与える可能性のある塩化ビニールではなくシリコンで。
防水機能もデフォルトであり、リップやキャンディーのような見た目もかわいいものもたくさんある。

しかもだ。ペニス然としたものではなく、コンランショップに置かれていても、「あら、おしゃれなオブジェかしら」と思ってしまうような、機能を抽象化したものもある。

ここでいう機能は男性器の代替ではなく、あくまで女性が楽しむことを目的とした機能だ。

彼我の差に嘆息した。
そして、彼らの努力とそれを下支えする考えをなんと形容すればいいのだろうと思いあぐねているうちに、とても便利な語を思い出した。
そう、ガラパゴス化だと。

相手を欲する。この単純きわまりない欲情をあいだに置きながら、これをめぐる解釈の違いがなんと男と女の距離を隔てているものだろうか。