ミルフィーユを食す

雑報 星の航海術

ミルフィーユが好きだ。

たまに食べたくなると、表参道くんだりまで出かけピエール・エルメに行く。ここのミルフィーユは、ヘーゼルナッツペーストをベースにしているのだが、濃厚であっても甘過ぎないところがいい。

しかし、このミルフィーユという代物は、すこぶる食べにくい。
いかように試みても口元に運ぶまでのフォークを華麗に舞わせることができない。パイが無惨に崩落していくばかり。

「やや、これは岩に刺さるエクスカリバーを引き抜くほどに難しいぢゃないか」と長らく思っていたのだが、横倒しにした上で食するのがいいと聞きつけ試してみたところ、あら不思議。

あれほど一刀両断&斬釘截鉄を拒んでいたパイ生地に、スッとフォークが入るではないか! 皿の上には、真っ向に切られたミルフィーユが。

“うわははは”と快哉をあげたくなるが、気味悪がられるので止すことにした。

断面をまじまじと見る。「羊羹の切り口に羊羹はない」との大森荘蔵の言葉をもじれば、さしずめ「ミルフィーユの切り口にミルフィーユはあるか?」。

なんでも地下に原子力発電所をつくることを目指す議連が発足したそうな。
地下ならば津波を受けないし、事故が起きたらそのまま放射性物質の拡散を雪隠詰めよろしく封じ込められるのだという。 地上よりも安全性が確保できるのだという。

想定を幾重にも重ねてかろうじて存立できる現実とは、幻のようなものではないか。
ミルフィーユの切り口にミルフィーユは実に有りや無しや?

安全性の連呼と喧伝の根底に控えるのは、「すでに応用可能な技術を使うことがなぜいけないのか?」の問いだろう。ここに「オレの自由だろ?」との幼稚な居直りと生命への冒涜の気配を嗅ぐ。

識者はいう。「生命倫理が科学技術に必要です」と。僕は思う。生命の倫理について人間が云々するなどおこがましい。

人間に語れるのは、せいぜいが人間の生命に関する倫理だけだ。己の身幅を自覚することもできないものが生命全体を語れるわけがない。

「技術は悪くない、使い方が悪いのだ」といっても始まらない。
それは「紙の表は善いが裏は悪い」と批難するのと同じことだ。表裏は分け方でしかなく、状態はあっても実体として存在しない。紙に表裏はなく、紙はただ紙でしかない。

ミルフィーユの切り口にミルフィーユを探す。概念としてのそれはあっても、そこにミルフィーユは存在しない。

人間の生命の倫理は、人間の勝手次第、切り取り次第で自由だ。「自由を追求して何が問題なのか」。おかけで開き直りの自由は、自滅を招来する代物と成り果てた。

開き直りの中に自由はないだろう。なぜなら開き直ることに釘付けにされているからだ。