夢のちまた

自叙帖 100%コークス

「家が売れたぞ」と父から電話があった。
売りに出してからかれこれ16年経つ。築27年の物件は、当初の建設に要した価格の半分以下で売れたという。それでも億はあったらしく、まあ上々の取引だったと言えるだろう。

いったいものの値段は不思議だ。
住居という生きることに欠かせないはずの装置を手に入れるためにに一生を費やさなくてはならないほどの価格がつけられているのだから。
生の初期設定のために死ぬまで働くとは、どういうことなのだろう。本末転倒を当たり前にしているというのはかなり珍妙だ。

「荷物の整理をしなくてはならんが、大量のテープがあるがあれはどうしたらいい?」と父が尋ねた。懐かしい。いずれ引き取りに戻ると返した。
関西人なら知っているだろうが、明石家さんまがパーソナリティを務めていた通称「ヤンタン」(MBS「ヤングタウン」)のラジオ番組の一年分の録音テープだった。なんど聴いても同じところでゲラゲラ笑っていたものだ。

電話を弟に替わってもらい、しばし話す。彼の様子が気になった。案の定、心なしか沈んでいるようだ。無理もない。

弟がまだ10歳くらいの折、いちど家が売れかけたことがあった。
見学に来た人が帰ると、激しく泣き「いやだ。いやだ。ここから離れたくない」と喚いた。
いつもはものわかりのいい弟の見せた激越な感情に、つと胸を打たれた。

その心持ちが痛いほどわかったからだ。
恐らく思い出のつまった家とさよならすることだけが悲しいのではないのだろうと僕は感じた。悲しさは怒りに由来しているだろう。

所有とそこから来るパワーの感覚を失うこと、落魄への恐怖も含まれているからだ。

住まいは世間でいうところの豪邸だ。子どもの頃から、僕はそこに住まうことを恃む気持ちと恥ずかしさをずっと感じていた。
幼い頃から「オヤジの会社を継ぐのか?」と聞かれたり、出入りのデパートの外商部の社員の「坊ちゃん」から始まる呼びかけの、よくわからないへりくだりに対する居心地の悪さを感じていた。

その一方、そういう眼差しにわずかに快楽を覚える気持ちもあった。それだけに嫌悪感も募った。居直ることも徹底的な否定もできず、いっそ落合福嗣くらいの太々しさがあればよかったろうに。

父の功績であって自分で獲得していないものを背景に自尊心を逞しくする己への卑しさを感じると同時に、だからこそ「このような生活が長く続くはずかない」という確信もあった。

バブルへと向かう時代の高揚の中、何もひとりで成し遂げられない自分がこの提供された豊かな生活に馴れて、すっかり狎れ切って、いずれ消え行く物質が盤石な世界だという考えに冒されないうちに、「ああ早く、自分のこの確信。崩落への揺るぎない思いが現実のものとなればいいのに」と、自らの享受している生活水準を失うことを怖れつつも、そう強く強く願ってもいた。

強迫に似た思いの由来は、何かと言えば、そも歴史を紐解けば明らかだった。
僕の心中の通奏低音は、易水は寒く、浪速のことは夢のまた夢であり、 偏に風の前の塵に同じ、という先人の述懐に彩られていた。

何かを所有できると思えることの幻想の強さと過去への執着は、わずか二代前はスラムで暮らしていたにもかかわらず、かつても、そしてこれからも富貴が続きうると思えてしまう。

高度経済成長からバブル、バブル経済の崩壊後はロストジェネレーションどまん中の生活をしてきた。
Japan as Number Oneと賞讃された栄華とその達成した価値の崩壊ときわめて生真面目に足並み揃えてきたこの道行きを幸いと呼んでいいかわからないが、「常に目を覚ましておけ」という歴史の警覚にも思えてならない。

実家からの眺めはよい。泉州から神戸の港を一望できる。
あの光景を二度と愛でることはできないが、もとから所有などしていなかった風景だ。

塵を飛ばした風はいつ吹いたか。思いも寄らぬ時と方角から吹き付けて来る。
そして、いま吹いた風はすでに去ってしまった。