ものづくりを思う

雑報 星の航海術

先日、地元の商店街を歩いていたら、黒塗りのタクシーがやって来、脇を過ぎて行った。

しかと見ていなかったのでニッサンのフーガかトヨタのレクサスか。はたまたボルボのようでもあり、判別できなかった。
「最近のデザインはコンピュータでつくられているせいかどこも似たように見えるな」と思いつ、左に折れるに従い姿を現したテールランプまわりのデザインを何気なく見遣り、ロゴに目を留めて驚いた。

hyudaiと記されていた。

驚愕した。
驚愕というからには、驚きと愕とは違うのだろう。それを身を以て体験した。びっくりして後、なんだかよくわからないがショックに包まれて、しばし呆然とした。

町中からドゥカティが消え、スズキやホンダが走り始めた時のイタリア人。
あるいは日本製は「安かろう悪かろう」と侮られていた戦前に、ゼロ戦の不意の登場に驚いたアメリカ人の心持ちとは、こうしたものであったか。

 

ヒュンダイ・ジャパンはすでに撤退したというから、大袈裟に過ぎるかもしれないが、来るべきものが来たという感慨を覚えた。

つまり、時節は韓国や中国製品を剽窃と嘲っていて事足りる段階ではなくなっているかもしれない。いずれ日本市場も席巻するかもしれない。実際、海外では気を吐いているというではないか。たった一台のタクシーではあったが、そんなふうに感じた。

僕が海外での日本企業の想像していた以上の苦戦を知ったのは、つい3年ほど前の話だ。
新興国のBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国。いまは南アフリカが加わりBRICSというようだ)でサムスンやハイアールが快進撃を続けており、パナソニックもサンヨーも苦杯を舐めていた。

にわかに信じ難かった。
新興国の中間層にとっては、低価格が魅力であり、質でいえばやはり日本製に軍配が上がるだろう。
信じられない思いをそのように合理化した。

当時、国際協力や国際ビジネス関連の取材をしており、その中でBOPビジネスやボリュームゾーンという語を知った。

BOPビジネスとは、一人当たり年間3,000ドル、一日当たりにして8ドル以下の所得で生活している、世界人口の70%以上を占める40億人以上の貧困層を対象にしたビジネスで、企業がこの層を対象に事業を行いつつ貧困層の生活改善も行う、Win-Win関係が成り立つビジネスのありようを指す。

そして、ボリュームゾーンとは、アジアを中心にした新興国の急速な経済成長に伴って年間の可処分所得が5000ドルから3万5000ドル(円高は進んでいるけれど、感覚として45万円から315万円くらい)を稼ぐ層のことで、8億8000万人程度と見込まれている。

サムスンはこのボリュームゾーンをターゲットにし、新興国で成功を収めていたようなのだ。

僕は現物を見たこともないくせに、こう思っていた。
冷蔵庫にしてもクーラーにしても日本製のほうが多機能、高品質なのに、なぜ冷やすくらいの単純な機能しかもちあわせていないものが、これほどまでに売れるのか。
ようは価格の問題だろう。安かろう悪かろうがわかれば、いずれ日本製になびくのではないか。

まして、日本市場でサムスンやヒュンダイ、ハイアール、レノボが地位を確保するのはまだまだ先だろう。

サムスンで常務を務め、現在の躍進の礎を築いた吉川良三さんに取材したことで、僕は自分の偏見を大いに砕かれた。

吉川さん曰く。
「ボリュームゾーンの顧客と先進国市場の顧客では要求仕様が違います」
「日本のメーカーは価格と品質は関係ないにもかかわらず、一律に“価格が安いものは低機能であり、悪いものだ”と考えるようになっているから真のニーズが見えない」

たとえば、多言語を使うインドでヒンドゥー語やパミール語を学ばせた駐在員を現地に送り込み、ニーズを徹底的にリサーチする。メーカーにとって良いと思うものを売るのではなく、ユーザーにとって良いものをつくる。彼らはニーズの原点を踏まえていた。
その一点においていずれは日本市場でのしてくる可能性はあるんじゃないかと思うようになった。

時期を同じくして、僕は日産のNPW(Nissan Production Way・日産生産方式)の開発に携わったエンジニアに取材をしていた。

国内で車が売れなくなった時代にあってなお国内に主要な工場を置き、高い人件費をかけ、合理化と効率化と高品質を並立させるべく取り組んでいる人たちの苦労を知った。

手間ひまをかけて良いものをつくれば売れる。そういう信仰さえもっていれば商品が売れた時代はとっくに去っていた。それを彼らは骨身に沁みて知っていた。

新しいマーチの生産拠点をタイに移したとき、国内に雇用をつくらないことを非難する声や先代マーチに比べて格段に劣るデザインを酷評する意見を多数聞いた。

けれど、僕は取材時にこういう話を聞いていたから、そうした批判がずいぶんとのんびりしたものに思えた。

たとえば、ものづくりの工程で四隅をあてて正確にビスをとめる作業があるとして、その技術を向上させることも大事だが、あらかじめ一定の形にしかはまらないようなデザインにしておけば、簡単にとめられる。そういう手法を開発しようと彼らは努力していた。

高度な熟練をさほど要さずに、工程をパスしつつ、それなりの品質を保った製品をつくる。さもないと企業が存続しない。

日本のものづくりの特徴は「凝る」ことだ。
しかし、今後は「それなりの品質」をつくることのほうが重要になってくる。

「それなり」は低品質を意味しない。価格に見合った質をつくり、それを求める層に届けることを指す。
従来の日本のものづくりの凝り方は、製品の過剰なまでの高機能化に向かっていた。それが求められているかどうかは問われないままに。

ところでコーヒー好きの僕は以前はドトールのコーヒーを美味しいとは思えず、莫迦にしていたのだが、ある日をさかいに「180円(いまは200円)で、この味を提供するのは、それはそれでスゴいことじゃないか」と思うようになった。
比較するのではなく、あるものの質を味わうことが大事じゃないかと刮目した。

コンビニで買える1000円のワインなどお話にならない。じゃあ1万円のワインならいいのか。
しかし、300万のワインを飲む人からしたら「そんなもので満足するとは信じられない」と言われたらそれでおしまいだ。

比較には切りがない。ようはどこで満足を見出すかだ。
本来のニーズとは、質と価格の見合ったところに満足を見出す。そこに生じるものではなかったか。

そんなことを思って僕はヒュンダイを見送ったのだった。