1996年の脱出

雑報 星の航海術

石川県輪島市沖で北朝鮮からの脱北者が保護されたというニュースを聞き、宮崎俊輔氏のことを思い出した。

1996年某月某日、日本政府はJALのジェット機をチャーターし、密かに大連に向かわせた。
宮崎氏を日本に帰国させるためだった。

宮崎氏は1960年、13歳のとき北朝鮮への「帰国事業」にともない、一家で北朝鮮に渡った。彼の父は韓国人、母は日本人だった。

日本では韓国人として差別を受け、社会的に上昇することができず、したがって父親は社会主義や思想への共鳴からではなく、まともな暮らしを手に入れるために北朝鮮へと渡った。
がしかし、彼の地では日本人として扱われ、社会的な処遇を得ることができず、いっそう厳しく、地べたを這うような暮らしを続けた。

36年間、辛酸を嘗め続けた後、金日成の死後、勃発した全土を覆う飢餓状況の中、家族に「必ず戻る」と言い残し、中国へ越境。

宮崎氏を見送る家族は、唇の肉がなくなり、まともに口を開くことができない状況だった。
鴨緑江を渡河、対岸の中国人の助けのもと、瀋陽の日本領事館に保護を求めた。彼の戸籍が確認され、日本へと帰国した。

無事に帰国はしたものの、日本社会に適応するための技術も知識もなく、就職もできない。
就職しようにも北朝鮮から帰国したという事実は、拉致事件が次第に明らかになる中では人々の警戒心を募らせるだけであった。

宮崎氏と会ったのは小泉政権下、自己責任という語が吹き荒れていた頃だ。その風潮の中、落伍者として扱われることに氏は苛立っていた。

私は彼の手記をまとめる仕事を手伝っていた。

その最中の2000年6月、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日氏が平壌で会談を行い、南北共同宣言が発表された。I氏はこれを苦々しく思っていた。
それはそうだ。「統一は自主的に解決する」とは、国際社会の関与から遠ざけ、つまりは彼の国の抑圧と飢餓に苦しむ人民を死ぬに任せるということだから。

あれから11年経った。現在、宮崎氏の行方は杳として知れない。